権現様しかめ像(しかみ像)~徳川家康苦難の絵画

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▼徳川家康(江戸幕府の初代将軍)は、1542年12月26日が誕生日とされている。
歴史マニアだと突っ込み入れる人いらっしゃるので、グレゴリオ暦換算すると、新暦1543年1月31日(水)。
三河(いまの愛知県東部)の岡崎城で小大名・松平広忠の子として生まれた。
永禄9年12月29日(1567年2月18日)に勅許を得て、徳川氏に改めた。
家康というとタヌキ親父の陰謀家というイメージがついて回る。
だから関ヶ原の石田三成は、政治能力に難があっても、関西では人気抜群だ。

▼そのタヌキ親父も生涯最大のピンチが少なくとも2度あった。
一度は「本能寺の変」で同盟者の織田信長が討たれたとき。
小人数の家来と大坂近郊に物見遊山中で、命からがら本領三河に逃げ帰っている(神君伊賀越え)。

▼もう一度は、まだ30才の頃。浜松城主であった家康は、武田信玄率いる上洛軍2万5千人を三方ヶ原に迎え撃った。
德川方は織田からの援軍を合わせても1万2千ほど。相手の半数以下だ。
加えて大将の能力が違いすぎる。2時間で家康は完敗した。

▼家臣が次々に身体を張って食い止める中、命からがら浜松城に逃げ帰った家康がとった行動は・・・。
絵師を呼び、自らの惨めな負け顔を写し取らせたという。
血気にはやって強敵に挑んだが、このとおり。
自分の惨めな姿を生涯座右において、戒めとし天下人にまで上り詰めた。

▼「権現様しかめ像」と伝わる武将の肖像としては珍しくユーモラスな1枚だ。
後日の作り話といわれるが、こういう逸話が生まれるところが苦労人家康らしい。

以上、柳生聡先生寄稿

柳生先生の素晴らしいお話にもありましたとおり、徳川家康の「しかめ像(しかみ像)」は、1572年、三方ヶ原の戦いにて武田信玄に大敗を喫したあと、徳川家康が絵師を呼び、自分への戒めとして書かせたものと言われています。

しかし、最近の研究ではその「絵画」は、紀伊藩主・徳川宗将の娘である従姫(よりひめ)(聖聡院)が、1780年に徳川治行へ嫁いだ際に、持参した嫁入り道具の一つであったことが判明したと言います。

そして、徳川家康の9男である初代尾張藩主・徳川義直が、父が苦難に陥っても耐えて最後には天下を取ったと言う事で、描かせたものであったと言う説が浮上しています。
それが、徳川美術館にて昭和10年に展示された際に、三方ヶ原の戦いの物だと言う説明になったとされ、定着したと言う説もあります。

いずれにせよ、徳川家康も三方ヶ原の戦い、本能寺の変と、何度もピンチに遭遇するも、打開するべく道を切り開いてきたと言えます。
そんな苦境が糧となり、関ヶ原の戦いでも勝利をおさめることができたのでしないでしょうか?

ちなみに、このページトップの写真は、岡崎城にあるものとなります。

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