3分でわかる織田信長とは~テスト対策にもなるポイント

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戦国時代の魔王・織田信長(おだのぶなが)は、尾張の小さな大名に過ぎませんでしたが、桶狭間の戦い今川義元の大軍を破り、武名を馳せます。
その後、徳川家康と同盟を結び、美濃・近江も平定し、足利義昭を擁立して京に登ります。

1573年に室町幕府の将軍・足利義昭を京都から追放し、室町幕府をほろぼしたのは織田信長です。
長篠の戦いで、鉄砲を大量に使用した集団戦法にて、騎馬隊の武田軍を破った武将は織田信長です。
比叡山延暦寺焼き打ちにした人物は織田信長です。
道を広げたり橋を設けたり、関所を廃止して、商人などが行き来しやすくしました。
安土城を築き、城下町に楽市楽座を敷いて商工業の発展を促したのは織田信長です。
楽市楽座とは、簡単に申し上げますと、既存の特権を排除して自由に商品を売って良いと言う市場にしたと言う事です。
本能寺の変明智光秀の謀反により自害した武将は織田信長です。




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織田信長がテストに良く登場するのは、奇襲して今川義元の首を取った桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)。
足軽鉄砲隊を駆使して、大量の鉄砲にてで甲斐の武田騎馬軍を破った長篠の戦い
明智光秀に裏切られて、自害することになった本能寺の変の3つです。

また、比叡山や本願寺といった仏教徒に対抗するため、キリスト教を保護したのも織田信長となりますが、そんな戦国時代の英雄も天下統一を目前に約50歳で人生を終えました。




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織田信長はなぜ強かったのか?

ここからの事項はテストにはでませんが、雑学としてどうぞ。
織田信長が桶狭間の戦いで勝利した要因は「情報」です。
敵の総大将である今川義元がいる場所を、家臣に調べさせて場所を的確に把握していたため、敵の本陣だけを目指して奇襲攻撃ができたのです。

その後、織田信長は「兵農分離」を勧めます。
それまでの戦国時代の「軍勢」と言うのは、刀を持った武士が1人いたら、農兵が3人付き従うと言う感じで、戦闘のプロが1人に対して、普段は農民である農兵が3人と言う割合でした。
しかも、農兵は、田植えの時期(春)と、稲刈りの時期(秋)には動員しずらいため、合戦をするとなると、夏と冬しか軍勢を動かせないのが戦国初期でした。
この軍制改革を行ったのが織田信長です。
織田信長は、岐阜城の城下に家臣らを住まわせて、農民の次男・3男という若者を兵士(足軽)として雇用し、一年中、いつでもすぐに出陣できる体制を整えたのです。
これが「兵農分離」(へいのうぶんり)と言う事になります。

ただし、合戦をたくさんするのにはお金も掛かりますし、鉄砲を買う軍資金も必要です。
そのため、本来であれば敵の侵攻を遅らせる為、狭くしている道路も、モノの輸送がしやすくなるようにと道を広げたり、関所を廃止したり、楽市楽座を行って商業を発展させました。
その結果、城下町が発展し、近隣諸国からも移住するものが増え、税収を増やしたわけですが、移住者が増えたと言う事は、近隣の大名は動員できる兵数を減らしたとも言えます。

ただ、家臣には厳しかったようで、常に「結果」を求めた一面もあります。
そのような経緯もあり、明智光秀の謀反に至った要員のひとつにもなったようです。

このように既存の概念にとらわれず、アイデアを駆使して「改革」を行ったのが織田信長と言う事になります。
ちなみに、織田信長は西洋のワインを飲んでいたりするイメージがありますが、実際にはお酒は苦手で、あまり好まなかったようです。

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