簡単解説「織田信長」とは テスト対策にもなるポイント

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織田信長(おだ-のぶなが)は、日本の戦国時代の大名で戦国三英傑のひとりです。
信長の父は織田信秀(おだ-のぶひで)と言いますが、もともと尾張守護(国主)の斯波義統の傘下である、尾張守護代の清州織田家のそのまた庶流(一族)に過ぎませんでした。
主君が斯波義統で、その重臣が清州織田家。
その重臣の織田家の家臣とも言えるのが織田信秀の立場でしたが、父・織田信秀はその才覚にて織田の主家を上回る勢いとなり、その権威は主君・斯波家をも圧倒しました。




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そんな中、生まれた織田信長は、僅か6歳で那古野城主となりましたが、幼少から青年期には奇妙な行動が多く「尾張の大うつけ」と称されます。
父・織田信秀が美濃・稲葉山城斎藤道三と和睦すると、斎藤家の濃姫(帰蝶)(14歳)と織田信長(15歳)は結婚しました。
1551年、織田信長が18歳のとき、父が病死したため家督を継ぎます。
しかし、信長の奇行は続いたようで、1553年に後見役の平手政秀が自害すると、以後は態度を改めたとも言われています。

主筋の織田信友を攻めて、織田家の中心地である清洲城に本拠を移しますが、弟・織田信行に家督を継がせたい家臣らと敵対します。
そのため、最終的には、弟を清洲城に呼び出すと暗殺し、家督継承を確かなものにしました。

その後、残りの織田家を攻めては追放し、1559年には尾張を統一して、織田信長(26歳)が国主となりました。

しかし、今川義元が2万とも4万とも言われる大軍で、尾張に侵攻します。
このとき、織田勢の最大兵力は5000で圧倒的に不利でしたが、1560年、桶狭間の戦いで、今川義元の首を上げると言う大勝利を収め、名を天下に轟かせました。

1562年には、今川氏真から独立した徳川家康と清洲同盟を締結。
斎藤道三の亡きあと、美濃の斎藤龍興へ攻勢に出るため、1566年には、木下藤吉郎(豊臣秀吉)に墨俣城を築かせています。
そして、背後となる北近江の小谷城主・浅井長政に、妹・お市の方を輿入れさせて同盟を結びました。

こうして、織田信長は美濃を手に入れると、岐阜城を改修して本拠を小牧山城から移しました。

また、伊勢にも進出すると明智光秀を家臣に迎えて、足利義昭を奉じて、京都への上洛を果たします。
畿内も支配下に置き、堺にて鉄砲を増産させ、貿易も実行し財力も得て行きます。

そして、一乗谷朝倉義景攻めに向かったところを、浅井長政の裏切にて、金ヶ崎の退き口と言う、命からがらの撤退も行いました。
すぐさま、姉川の戦いにて勝利して、比叡山延暦寺の焼き討ちも実行。
しかし、1572年、織田信長が39歳のときに、甲斐の武田信玄三方ヶ原の戦いにて徳川家康を破り、尾張に迫ります。
ところが、陣中にて武田信玄が没したことで、危機を回避すると、足利義昭を追放して室町幕府を終わらせました。
また、小谷城の浅井家、越前の朝倉家も滅亡させ、越前の一向一揆も柴田勝家を派遣して攻略しています。
1574年には、伊勢も平定し、1575年、武田勝頼長篠の戦いにて撃破しました。
そして、安土城の築城を開始すると、上杉謙信に対しては柴田勝家、毛利家に対しては羽柴秀吉(豊臣秀吉)を担当させ、多方面にて勢力を拡大して行きました。




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謀反を起こした有岡城主・荒木村重も攻略し、京都馬揃え(軍事パレード)も実施。
念願の武田家をも滅ぼし、まさに天下は目前まで迫っていました。
しかし、1582年、重臣である明智光秀の謀反により、京都で発生した、本能寺の変にて、織田信長は命を落としました。
嫡男の織田信忠二条城にて討たれ、羽柴秀吉が明智光秀を討伐。
のち清洲会議にて羽柴秀吉は織田家の実権を握り、天下人へと進んでいくのでした。

もっと、詳しく織田信長と言う人物に詳しくなりたい方は、下記も合わせてご高覧賜りますと幸いです。

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