デヴィ夫人のご先祖様は関ケ原の戦いのあと武士を辞めた根本氏の一族か?

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デヴィ夫人(デヴィ・スカルノさん)は、オランダから独立を果たし、インドネシアの初代大統領になったスカルノ大統領と、22歳の時に正式に結婚し、4人の夫人のうちの第3夫人となりました。
しかし、3年後の1965年(昭和40年)に軍事クーデターが発生し、東京にて娘のカリナさんを産むと、最終的にはフランスに亡命しています。
また、1970年(昭和45年)に夫・スカルノ元大統領が死去すると、インドネシア政府の方針により、第3夫人としての遺産分与も行われました。
なお、デヴィ夫人のインド名はラトナ・サリ・デヴィさんで、日本での旧姓(本名)は、根本七保子(ねもと-なおこ)さんとなりますが、15歳のときに父親を亡くしています。
新聞の番組欄などでは「デビ夫人」と表記されることもあります。

さて、デヴィ夫人のご先祖様には、戦国時代に活躍した武将がいます。

平安時代の929年に唐沢山城主となった藤原秀郷を祖とする武門で、代々常陸国の守護代を勤めた小野崎氏(おのさきし)がいます。
この小野崎氏は常陸・太田城を築いたことでも知られ、分家(庶流)として、小貫氏、常陸大森氏、茅根氏、根本氏、助川氏、内桶氏を輩出し勢力を拡大しました。
小野崎通成の2男・小野崎盛通が根本氏を称したのが始まりです。

小野崎氏は佐竹四天王と称された、佐竹氏の有力な重臣であり、根本氏は常陸国久慈郡根本(根本城)を本貫とし、根本宮内正や、根本里行(根本紀伊守里行)の名が見受けられます。




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根本里行に関しては少し記録があります。

父・根本賢行も佐田氏の重臣として仕えており、根本里行は永禄13年8月、下野・大山田の戦いにて戦功があり、紀伊守に任じられました。
天正4年11月には、、山方彦太郎の後継者選定を任されています。
天正5年5月には、佐竹氏の直轄領である東河内の代官になりました。
天正18年、佐竹義宣の弟である岩城貞隆が岩城氏に養嗣子として入る際には、岡本顕逸(おかもと-けんいつ)とともに飯野平城(磐城平城)(12万石)に移って、付家老になっています。
子がいなかったため、小野崎通隆の次男・小野崎通国を養子に迎えたようです。

1600年、関ケ原の戦いにて、主君・佐竹義宣は徳川家康からの人質提出を断り、上杉景勝と密約を交わしたようですが、積極的な支援には出ておらず、逆に上田城攻めの徳川秀忠に、佐竹義久ら300騎の援軍を派遣しています。
そのあと、徳川家康や徳川秀忠にも陳謝したことから命は許されましたが、54万石から20万石への減封となり、佐竹義宣は秋田に移ります。
この時、根本氏からは根本為通、根本為行、根本小兵衛ら8家が従いました。
しかし、小録の佐竹家臣らは、秋田に行って生計が立たないことから断念し、武士を辞めて帰農した武将がたくさんいます。
同様に、根本氏の一族からも帰農して豪農となったり、漁師の頭領になった武将が何人もいた模様です。
100石以下の下級武士は、秋田に行けなかったともされます。




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ちなみに、根本さんは茨城県では7番目に多い苗字となっています。
これら、根本氏を先祖に持つと考えられるのが、デヴィ夫人ですが、細かいところまで立入るのは大変失礼ですので、この辺でやめておきます。
以上、史料も乏しい状況ですし、これまで正しいと考えられていた歴史が、来年には違う見解になっていることも珍しくなく、他の歴史と同様に「諸説」ありますので、上記が100%正しいと保証できませんことをご確認申し上げます。

デビィ夫人の強さや逞しさ、またその美貌も、このようなご先祖様の苦労があったからこそ、ご自身も知らない間に鍛錬なさった、並々ならぬご努力の結果なのかも知れません。
デビィ夫人は出川哲朗さんと、よく一緒にテレビ出演なさっていると言うイメージがありますが、今後のご活躍も大変楽しみです。

佐竹義宣 なんとか戦国時代を乗り切った律義者の世渡り