高橋元種(たかはし-もとたね)は、1571年に筑前の秋月城主・秋月種実の次男として生まれました。
母は田原親宏の娘です。
天正6年(1578年)、耳川の戦いのあと、8歳の頃に同盟者である小倉城主・高橋鑑種の養子となります。
そして、攻め落とした香春岳城を高橋元種が任されますが、まもなく養父・高橋鑑種が死去します。
そして、高橋家を継いだ高橋元種は、実家の秋月家に協力して島津家と組んで、大友氏に対抗します。
正室は宇喜多忠家の娘です。
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1587年(天正15年)、豊臣秀吉の九州攻めとなると、高橋元種は小倉城を開城して降伏しました。
兄の秋月種長も、父と共に戦いましたが、一夜城(益富城)が現れたため降伏しています。
秋月家は、日向の財部城(高鍋城)に3万石にて移封となり、高橋元種も日向の縣城(松尾城)に5万3000石で移っています。
1591年9月27日には、日向・中山城(日向・仲山城)の三田井親武を家老・甲斐宗摂の協力にて攻略して高千穂の支配を確立しました。
また、反抗していた岩戸の大野原城(亀山城)、河内の鬼頭山城(亀頭山城)も落城させています。
1592年、朝鮮攻めでは毛利吉成の第4軍として参加し、島津義弘と高橋元種らは漢城まで侵攻しています。
1600年、関ヶ原の戦いでは兄・秋月種長と行動を共にし、石田三成の西軍として大垣城の籠城に加わりました。
9月15日の本戦でも、そのまま大垣城の守備を任されていましたが、すでに徳川家康に内応しており、西軍が敗れたと知ると水野勝成の勧めで東軍に寝返る決心をします。
そして、大垣城にて一緒に籠城していた相良頼房を誘って、東軍の熊谷直盛、垣見一直、木村由信・木村豊統の父子らを大垣城の中にて殺害しました。
こうして、9月23日には、大垣城・守将の福原長堯を降伏させたため、徳川家康から所領を安堵されています。
なお、当初、東軍に味方していたため、国元では、伊東祐慶の重臣で、清武城主の稲津重政から、宮崎城が攻撃を受けました。
この時、宮崎城を守っていた権藤種盛はわずか700で、討死して1日で落城します。
しかし、戦後、宮崎城は高橋元種に返還されています。
その後、高橋元種は縣城(延岡城)の築城を行い、延岡藩の基礎を固めました。
津城主・富田信高と、津和野城主・坂崎直盛が対立した際に、坂崎直盛の甥・坂崎左衛門(宇喜多左門、水間勘兵衛)が出奔していたのを、高橋元種が高千穂にて匿ったとされ、慶長18年(1613年)10月24日、突然、幕命により改易・所領没収となりました。
高橋元種は長男・高橋左京と共に陸奥の棚倉藩主・立花宗茂にお預けとなります。
そして、高橋元種は慶長19年(1614年)10月9日、棚倉にて死去。享年44。
ただし、終焉の地としては、浜松・宮城・愛媛など諸説あります。
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長男・高橋左京大夫(高橋一斎)は、初め棚倉藩にて使えますが、陸奥・二本松藩に配流されると丹羽氏に仕え、子孫も代々丹羽氏の家臣となっています。
次男・高橋種直は、家臣の土師七左衛門経次と花田備後守行栄に釣れられて薩摩の島津家を頼ります。
そして、綾城下に住みました。
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