木崎原の戦い~釣り野伏せ戦法と島津義弘と伊東家の総大将「伊東祐安」

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木崎原の戦いとは

木崎原の戦い(きざきばるのたたかい)は、1572年に日向の真幸院木崎原(宮崎県えびの市)で行われた伊東義祐島津義弘(38歳)との合戦です。
伊東家側は覚頭合戦と言いますが、島津家側は加久藤城の戦いとする場合もあります。

薩摩の島津家15代で薩摩を統一した島津貴久が、1571年6月に没して、子の島津義久のとき、大隅の肝付良兼が島津領に侵攻開始します。
これを好機とみた、都於郡城主・伊東義祐は、真幸院を完全に支配するべく、人吉城の相良義陽に密使を送って援軍の約束を取り付けました。
そして、小林城(三ツ山城)に集結していた伊東勢は1572年5月3日の夜、内木場城主・伊東祐安を総大将にて、伊東祐信、伊東又次郎、伊東祐青ら3000が、島津貴久の次男・島津義弘が守る飯野城付近へと進軍させました。

日向・飯野城

ただし、伊東勢の多くは、まだ若い大将が多かったと言います。
一説では、小林城攻略に失敗した島津義弘が、情報操作して伊東勢を誘い出したとも言われています。

なお、伊東祐信(いとう-すけのぶ)は、日向伊東氏の一族である伊東祐梁の子です。
父・伊東祐梁は、飫肥城主となった伊東祐兵の後見を努めていました。

伊東祐安

伊東家の総大将を任じられた伊東祐安(いとう-すけやす)は、伊東祐国の3男である伊東祐武(いとう-すけたけ)の嫡男です。
父・伊東祐武は、1533年に、伊東家の家老である福永祐炳ら鳥栖・福永氏の4人を自害に追い込み、都於郡城を占拠すると言う謀反を起こし、伊東祐清を擁立た荒武三省の軍勢に敗れて自害していました。
しかし、子らは許されたようで、伊東祐安は飫肥城攻めでも武功を上げ活躍していました。
その後、真幸院方面の攻略を担当しており、1571年頃には、三ツ山の内木場城主となっていたようです。

木崎原の戦い

伊東勢は島津義弘の居城・飯野城の抑えを妙見原に残して、伊東祐信と伊東又次郎らが飯野城を横目に上江村から木崎原を抜けて、加久藤城へ向かいました。
この時の加久藤城の城代は川上忠智(川上三河守)で、島津義弘の継室・実窓夫人(広瀬夫人、園田実明の娘)と、嫡子・鶴寿丸(つるひさまる)(島津忠恒)ら50名ほどで籠城していたと言います。
伊東勢は、まだ暗い中、加久藤城下の家を焼きますが、これら伊東家の動きは、島津義弘が放った間者である盲僧・菊市によって、情報がもたらされていたようです。
ただし、この3000に備えた島津勢わずか300と、10分の1に過ぎませんでしたが、島津義弘は本領を発揮します。




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まず、狼煙を上げて、大口城の新納忠元や、馬関田城など救援を求めます。
また、兵60を遠矢良賢に与えて、加久藤城へ造援させました。
更に、家老の五代友喜に40人を預けて白鳥山の野間口に、村尾重侯には50で本地口の古溝にと、それぞれ伏兵とします。
そして、飯野城は有川貞真に留守居を任せて、島津義弘は自ら130を率いて城から討って出ると、飯野城と加久藤城の間の二八坂に進出しました。

伊東祐信は、僅かな人数で守備している加久藤城へ攻撃を開始しますが、事前情報である城の搦め手に通じる鑰掛口を攻めました。
ただし、暗い中勘違いして、鑰掛の登り口にある樺山浄慶の屋敷(浄慶城)を攻撃しました。
樺山浄慶の父子3人は石を投げて、多数の兵がいるように見せかけて奮戦しましたが、討ち取られます。

伊東祐信の部隊は、ようやく搦め手へ向かいましたが、断崖で思うように進めず、大石や弓矢による攻撃を浴びます。
これは、伊東家の城の女中として、女間者を送り込んでいて、加久藤城の弱点が鑰掛口であるとウソの情報を巻いていたとされます。
そして、実は攻めにくい鑰掛口にて伊東勢が苦戦しているのを見ると、加久藤城を守っていた川上忠智が城から打って出て突撃しました。
そこに、救援に駆けつけた馬関田城などからの救援と遠矢良賢によって挟み撃ちを受けて、伊東祐信は退却を開始します。
諸説ありますが、このとき、伊東勢は伊東杢右衛門や小林城主・米良重方、三ツ山衆で奉行の丸目頼美らが討ち取られました。

加久藤城

退却した伊東祐信らは池島川まで下がりって、鳥越城があった跡地にて休息します。
この時点では、伊東勢は兵力では優勢であり、その油断からか、むし暑さのため、甲冑を脱いで、川で水浴びする兵も多かったと言います。
その情報を斥候の沢田八専が島津勢に報告すると、島津義弘は、鎌田政年らと150にて全面攻勢に出ました。

伊東家は大勢の兵が倒れ「三角田の地」にて、大将の伊東祐信と、島津義弘は一騎討ちとなります。
この一騎討ちで、島津義弘が乗っていた栗毛の牝馬は、伊東祐信が島津義弘に向けて槍を突き出すと、馬は膝をついて交わしたとされます。
※柚木崎正家との一騎打ちの際ともされています。
なお、この馬は「膝突栗毛」と呼ばれて、大事に扱われ、人間の年齢にして83歳まで生きたと言います。
この膝突栗毛の墓は、義弘が晩年を過ごした、帖佐館の近くにあります。

この敗戦により、伊東軍は、残った伊東祐信と本隊が合流すると、白鳥山を抜けて日向・高原城へと退却を始めました。
しかし、兵力に劣っていた島津勢は、更に策略を用います。

白鳥山に潜んでいた、白鳥神社の座主・光巌上人や、僧侶・農民ら300が、鉦と太鼓を鳴らし、また白幟を立てて、伏兵がいると偽装します。
これは、島津義弘の命を受けた黒木実利(くろき-さねとし)が、光巌上人の元へ出向いて、偽装兵を用意させていきました。
これに驚いた伊東勢に対して、60人を預かっていた鎌田政年(かまた-まさとし)が背後から襲撃させました。
また、島津義弘は正面から攻撃しますが、この時はさすがに撤退しており、遠矢良賢、久保伴五左衛門、野田越中坊、鎌田大炊助、曾木播磨、富永刑部らが殿(しんがり)を努めて討死しています。

島津勢は、木崎原まで戻ると、加久藤城からの援軍と合流して、陣形を整えると、再度、伊東勢と交戦しました。
伊東勢は、黒木実利の伏兵によって、また木崎原へ引き返されていたのです。

島津勢の立て直しの速さに伊東軍はスキを突かれ、そこへ追い討ちを掛けるように背後から鎌田政年が挟み撃ちします。

また、伏兵となっていた五代友喜(ごだい-ともよし)が側面から攻撃を加えました。

結果的に「釣り野伏せ」の形になり、伊東勢は崩れ始めました。
釣り野伏せ(つりのぶせ)と言うのは、中央の部隊がわざと退却し、そこを敵が追いかけてくると、それを左右に待機させていた伏兵にて挟み撃ちすると言う戦法です。
島津義久が発案したとされており、以後、耳川の戦い沖田畷の戦い戸次川の戦いなどでも応用されて島津家は勝利を重ねます。

混乱に陥った伊東勢は小林城をめがけて撤退開始しますが、本地原まで差し掛かったときに、古溝にて伏兵となっていた村尾重侯(むらお-しげあり) 50の奇襲を受けます。
村尾勢は日向伊東氏の軍勢50余人を討ち取りました。
子の伊東祐次の戦死を知った総大将・伊東祐安は戦場に引き返しますが、村尾家の家来・二階堂四郎左衛門が、伊東祐安を脇下したから射殺しました。
伊東祐安は、真っ逆様に落馬して絶命したと伝わります。(諸説あり)

なお、伊東祐安の嫡子・伊東祐次と伊東祐安の弟・伊東右衛門ら160は、小林城とは反対方向の丘へと逃げましたが、そこを遅れて到着した新納忠元150騎に討たれたとされています。

横尾山には島津勢の富永万左衛門が偽兵を配置しており、逃走路を限定させた伊東勢を鬼塚原(現・西小林)の粥餅田と呼ばれる場所(粥餅田古戦場跡)まで追撃し、柚木崎正家(柚木崎城主)、肥田木玄斎、落合兼置ら伊東軍の殿(しんがり)を討ち取ると、そこで島津勢は追撃を辞めました。

この木崎原の戦いにて、伊東勢は他にも長倉六三郎、長倉伴九郎(清武城主)と弟の長倉伴十郎、須木城主の米良長門守ら、武将128人を含む士分250余人、雑兵560人余りを失うと言う大敗を喫しました。
伊東マンショの父・伊東祐青は、辛くも小林城へと無事に逃れていますが、伊東家で名の知れた武将で戻ったのは、この伊東祐青と伊東祐審くらいです。

木崎原の戦い

一方、勝利した島津勢も被害は甚大で、士分150人、雑兵107人と、戦闘に参加した将兵の85%以上が討死すると言う壮絶な戦いでしたが「九州の桶狭間」とも呼ばれています。

島津義弘は木崎原まで戦跡を巡検して戻り、負傷者の手当てを行いました。
黒木実利の妻と女中らが、粥桶を持って現れると、島津義弘らに「粥」を振る舞ったため「粥持田」(粥餅田)と呼ばれる由縁です。
そして、島津義弘は首実検を行うと、飯野城に帰還して将兵に祝杯を与えたと言います。

激戦地となった三角田には、六地蔵塔を建てて、双方の戦没者を供養しました。
五代友喜は敵の総大将であった伊東祐安を弔う供養塔を建立したとあります。

ちなみに、島津義弘は、相良家から援軍が襲撃すると言う情報もを得ていて、街道に旗をたくさん並べると大軍に見せる計略にて、相良勢の援軍である佐牟田常陸介と深水播磨の動きを封じていました。

木崎原古戦場跡

最大の決戦場となったのが木崎原です。
下記は、伊東祐信と一騎打ちしたとされる「三角田の地」です。

三角田の地

合戦後に島津軍の将兵が血に染まった刀を洗ったとされる「大刀洗の川」があります。

その近くには伊東軍の戦死者の首を埋葬した「首塚」と、また義弘が敵味方の戦死者を弔うために建立した「六地蔵塔」などが現存します。

六地蔵塔

大きなトイレも完備されており、駐車場も20台ほどと大きいです。
場所は当方の九州オリジナル史跡地図にてわかるようにしてあります。

「島津義弘公歌碑」には、関が原の戦いの際に詠んだとされる「いそぐなよ また急ぐなよ 世の中の 定まる風の 吹かぬかぎりは」と歌が刻まれています。

木崎原古戦場跡

伊東塚

木崎原合戦で討死した、伊東家の武将の墓としては、宮崎県小林市の小林市高校の裏手に「伊東塚」(いとうづか)と言う墓所があります。
伊東家が供養のためにもうけたものです。

伊東塚

伊東加賀守、伊東又次郎、伊東新次郎、米良筑後守ら約200の諸将の供養塔があったと言います。
しかし、現在は伊東加賀守、伊東又次郎、伊東新次郎、稲津又三郎、上別府宮内少輔、米良筑後守、米良喜右介、米良式部少輔、野村四郎佐衛門の9基が残されています。

伊東塚

この上別府宮内少輔(かみべっぷ-くないしょうゆう)は、同じく清武城主となっていた長倉伴九郎(享年25)が討死したと聞いて、戦場に引き返して討ち取られたと言います。享年41。

五輪塔は、江戸時代に入って1650年に、五代友喜(五代勝左衛門)の子孫が建立したものとなります。
伊東塚も、場所は当方の九州オリジナル史跡地図にてわかるようにしてあります。

なお、島津義弘は、その首実検をしたのち、米良重方(米良筑後守重方)の首は故郷に帰しました。
そのため、知勇兼備の将とされる米良重方の墓は、米良家の菩提寺である一麟寺にあり、送り届けられた際の「首桶」も現存していると言います。




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さて、この木崎原合戦と言い、勇猛果敢な島津義弘の能力もそうですが、そのカリスマ性だけでなく、主君のため命がけで戦う家臣がたくさんいる島津家だからこそ、勝利できた合戦であったと感じずにいられません。
以上、島津家の島津四兄弟が、九州制覇へと向かう大きな第一歩となった、木崎原の戦いでした。
この戦いのあと、5年後に伊東義祐は「伊東崩れ」となり、佐土原城を捨てて豊後へと落ち延びます。

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