根白坂の戦い~島津家の降伏を決定づけた夜襲と強固な豊臣勢の守備

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根白坂の戦い(ねじろざかのたたかい)は1587年、豊臣秀吉の九州攻め(九州征伐)の際に、羽柴勢と島津勢が戦った合戦です。

徳川家康を臣従させた豊臣秀吉は、1587年1月に九州出陣の触れを出します。
戸次川の戦いにて、先に九州に上陸した仙石秀久大友義統十河存保長宗我部元親長宗我部信親、依岡左京らは、戸次川の戦いにて島津家久に挑みますが大敗を喫します。

しかし、総大将は弟の羽柴秀長(豊臣秀長)とし、毛利輝元小早川隆景吉川元春黒田長政蜂須賀家政藤堂高虎、加藤嘉銘、脇坂安治、宇喜田秀家、大友義統らが合流。
また、肥前の龍造寺政家と鍋島直茂も豊臣家に帰順して軍勢に加わりました。
更に海からは、長曽我部元親が5000を舟に乗せて、豊後の海岸を目指します。




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島津家久は日向・松尾城に撤退し、島津義弘は豊後・府内城に入って守備を固めますが大軍には叶わず海路にて松尾城へと後退します。
これにより、九州において島津家に屈していなかった岡城主・志賀親次、栂牟礼城主・佐伯惟定、鶴崎城主・妙林尼なども豊臣勢に加勢。
特に寺司浜の戦いでは、妙林尼が退却する島津勢の白浜重政、伊集院久宣ら63首を討ち取っています。

島津義弘は縣城(延岡城)に土持久綱と、新納院高城には家老の山田有信を残して佐土原城まで更に退却しました。

豊臣秀長は、堅固な高城を大軍で囲むも総攻撃は避け、島津勢が必ず後詰として通行するであろう「根白坂」(ねじろざか)に砦を設けて、空堀や板塀などにて要塞化し迎え撃つ作戦に出ました。
黒田官兵衛の策である可能性もあります。

豊臣秀吉の本隊も3月29日に小倉城に着陣し、島津家に従っていた秋月種実は4月3日に降伏。
豊臣秀吉は4月16日には隈本城、17日にし宇土城と南下するなか、わずか300で3ヶ月間籠城している高城の山田有信を見捨てられない島津義久と島津義弘は、都於郡城からついに動き決戦を挑みます。

1587年4月17日、島津勢は約35000にて根白坂に迫ると、下記より坂を下りました。

根白坂の戦い

豊臣勢は坂の途中に陣地を築いていた宮部継潤・南条元続・木下重堅ら10000が鉄砲などで防戦します。
島津勢はお得意の「夜襲」でしたが、これは黒田官兵衛が見抜いていました。
敵襲の知らせが届くと、高城を包囲していた豊臣秀長ら約70000とも言う大軍は、宮部継潤に加勢して、島津勢を挟み撃ちにしようとします。
下記は現在の根白坂です。

根白坂合戦場

しかし、豊臣勢の軍監(軍師)だった尾藤知宣は、慎重論を訴えて、宮部継潤を見捨てるように進言しました。
そのため、藤堂高虎と戸川達安、更には黒田官兵衛・小早川隆景・蜂須賀家定ら僅かな手勢が根白坂砦を助けに行きます。

激しい夜襲は、明け方まで続きましたが、島津勢は堀と丸太などの防衛戦を突破できず、鉄砲を撃ちかけられて次々に倒れます。
そして、島津忠隣・猿渡信光らが討ち取られるなどし、朝には壊滅しました。
島津忠隣(しまづ-ただちか)は享年19。

敗走した島津義久と島津義弘は僅かな手勢にて都於郡城へ退却し、島津家久も佐土原城に兵を引いています。

そして、高城を包囲しつつ、豊臣秀長は都於郡城を攻略し、岩牟礼城(小林市)まで侵攻しました。
島津義弘はかつての居城・飯野城(宮崎県えびの市飯野)に籠城しています。

根白坂で主力決戦にて完敗した島津家では、一族の島津忠辰や島津忠長らも降伏し、当主の島津義久は剃髪して龍伯と号すると、5月8日に豊臣秀吉に降伏しました。

なお、高城の山田有信は、島津家が降伏しても籠城を続け、のち島津義久の説得を受けてようやく高城を豊臣家に明け渡しています。




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実際に、大掛かりな砦を築いたということで、根城とも呼ばれますが、坂の名前は現在、椎木坂(しいのきざか)となっています。
高城からは約4kmと言う至近距離です。

ちなみに、敗走する島津勢の追撃も辞めるように言った尾藤知宣は、豊臣秀吉の逆鱗に触れて所領没収となっています。
また、この尾藤知宣を一時、客将として迎えた深志城主・小笠原貞慶は、3年後にこのことが露見して同じく所領没収になりました。
根白坂のある場所は、当方のオリジナル九州史跡マップにてわかるようにしてあります。
なお、近くでは、有名な耳川の戦いもあったところですので、訪問の際にはセットでどうぞ。

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コメント(4件)

  • […] 本能寺の変のあとは、5万石に加増され、1585年、佐々成政への攻撃や、九州平定攻めにも参じました。 南条元続、亀井茲矩、荒木重堅、垣屋光成らを従えて参戦しており、特に、日向・高城にて島津家久を撃退しています(根白坂の戦い)。 この時、島津家の来襲を予測して、根白坂砦の前に堀と柵を構築しており、大軍を防いだことから、秀吉より「日本無双」の感状を与えています。 […]

     
  • […] そのため、島津義久(46歳)は本隊2万~3万を率いて佐土原城経由で11月12日に、根白坂上(陣之内)に到着。 そして、木城町下鶴付近で、耳川の戦い(高城川原の戦い・高城の戦い・高城川 […]

     
  • […] そして秀吉の大軍に島津勢はよく戦いましたが島津歳久の養子・島津忠隣が討ち死した根白坂の戦いなど各地で徐々に劣勢となり、翌年の天正15年(1587年)にはとうとう義久、義弘、家 […]

     
  • […] 1586年8月、奥熊野の地侍たちによる北山一揆が発起すると、豊臣秀長も自ら出陣したが、豪雪のため一時撤退。 その後、1587年の、九州征伐が優先され、豊臣秀長は日向方面の総大将として出陣し、耳川の戦いの舞台となった高城を包囲すると、援軍として駆けつけた島津義弘が宮部継潤の陣に夜襲を仕掛けた(根白坂の戦い)が、宮部継潤が抗戦している間に、藤堂高虎・黒田官兵衛(黒田孝高)が合流し、夜襲した島津家随一の名将・島津家久を破ると、島津勢は薩摩国に撤退した。 その後、島津義久が豊臣秀長を訪ねて講和となっている。。 この功績により、8月8日に従二位権大納言(徳川家康と同位同日に任官)に叙任し、大和大納言と呼ばれた。しかし、この時、よっぽど戦費捻出に苦しんだのか、豊臣秀長は、九州征伐に参加した大名に兵糧を割高な金額で売り付けようとして豊臣秀吉に止められている。 その後、1588年9月に熊野の一揆鎮圧に再び出兵し、鎮圧成功。 この一揆鎮圧で活躍した紀伊湊の領主・吉川平介が、1588年12月に豊臣秀長の命で熊野の木材2万余本を伐採して大坂で販売したが、吉川平介が熊野統治において着服するなどした為、激怒した豊臣秀吉は大和西大寺で吉川平介を処刑し、首を洛中にさらした。 この時、豊臣秀長も責任を問われ、豊臣秀長は1589年の年頭の挨拶として新年祝賀の太刀進上を行うも、豊臣秀吉に拒否されている。 以後、豊臣秀長が大坂城を訪れたという記録はない。 […]

     

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