手取川の戦い~手取川はこんなところでしたが上杉謙信は強かったのか?

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手取川の戦い(てどりがわのたたかい)は、戦国時代の1577年9月23日に、上杉謙信柴田勝家が戦った北陸での合戦です。

七尾城主の畠山義隆(はたけやま-よしたか)が死去し、まだ5際~6歳である畠山春王丸(はたけやま-はるおうまる)が家督を継ぐと、春日山城の上杉謙信は、1576年9月から対立していた能登へ侵攻します。
この時、畠山家で実権を握っていた長続連・長綱連の親子は、2000にて七尾城に籠城します。
能登・七尾城は要害であったため、2万の上杉謙信でも、数ヶ月では容易に落とすことはできません。
そこを、小田原城北条氏政が1577年3月に、北関東へ出陣したため、関東の諸将より救援要請を受けた上杉謙信は、越後へ兵を戻します。
すると、畠山勢が反撃に出たため、7月になって上杉謙信は再び能登へと出陣しました。
畠山勢はまた七尾城に籠りましたが、今度は危機感を募らせて、領民を含めて15000もの大軍で籠城します。
さらに、長続連(ちょう-つぐつら)は、上杉勢に対抗するため、子の長連龍安土城に派遣して、織田信長に援軍要請しました。




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織田信長は、越後を狙っていましたので、この要請を了承して、8月8日、北ノ庄城の柴田勝家ら織田勢が出陣しました。
柴田勝家が総大将で、従った織田勢の武将は、滝川一益羽柴秀吉(豊臣秀吉)、丹羽長秀斎藤利治、氏家直昌、安藤守就稲葉良通不破光治前田利家佐々成政、原長頼、金森長近長谷川秀一、徳山則秀、堀秀政、若狭衆と総勢4万の大軍です。

これで、七尾城の長続連も安心したと言いたいところですが、15000での籠城は兵糧の消耗も激しく、幼君の畠山春王丸も籠城中に疫病し、疫病で亡くなる者が多発します。
一説によると、屎尿処理ができず、極めて不衛生な状態になったとの事で、コレラなどの疫病が発生したと考えられています。

そして、上杉謙信に近かった遊佐続光は長続連への権力集中を嫌い、温井景隆や三宅長盛の兄弟らと上杉家に内応します。
こうして、9月15日、七尾城の門が開いたところを上杉勢がなだれ込み、長続連だけでなく、その子・長綱連と弟・長則直や、長綱連の子・竹松丸と弥九郎ら一族を討ちました。
ちなみに、長一族で生き残ったのは、安土城に行っていて長連龍と、長綱連の末子・菊末丸くらいです。

七尾城を救えなかった柴田勢ですが、加賀一向一揆の妨害などもあり進軍速度が遅く、七尾城が陥落したことも知らずに手取川を越えはじめました。
ところが、途中で柴田勝家と意見が分かれた、羽柴秀吉が作戦上の対立を理由に、織田信長にも相談なく無断で帰ってしまいます。
そこを、織田勢の接近をしった上杉謙信は、一向宗の若林長門守と和睦して手取川付近にあった松任城へ進みます。

柴田勝家は、全軍が手取川を越えたところで、七尾城の落城と、上杉謙信の松任城入場を知り、即座に退却を支持しました。
そこを、上杉謙信が自ら20000を率いて、松任城から討って出て、9月23日、手取川の戦いとなりました。
夜間の戦いになったとする説もあります。

夕方なので少し暗くなっていますが、写真にもありますとおり、手取川は今でも、川幅が結構広い、立派な河川です。

手取川の戦い

その昔は、石川とも呼ばれていた川でした。
そもそも、なんで「手取り」(てとり)と言う名称なのか?と申しますと、木曽義仲が手取川を渡河する際に、流れが強くて大変危険だからと「皆、手を取り合って渡るように」と指示したことから、その名がついている川なのです。
更に、川の水は増水していたと言いますので、この好機を上杉謙信が見逃すはずありません。

手取川

馬も流され、鉄砲も火薬が濡れて使えず、川を渡ろうとすれば流されて溺死し、川を渡るのを拒めば上杉勢に討たれると言う状況で、織田勢は敗戦となり、上杉謙信は織田信長の軍勢との初戦を見事に勝利したのです。

一説によると、上杉謙信は越前・丸岡城付近まで追い詰めたとあります。
本当に丸岡城まで上杉勢が達していたのであれば、柴田勝家はかなりピンチだったと言えるでしょう。
しかし、上杉謙信は、9月26日には七尾城に戻って、城の修復を指示しています。

10月3日、柴田勝家は、御幸塚の要害に佐久間盛政大聖寺城には柴田勢を残して加賀から北ノ庄城に戻りました。

さて、勝手に軍務放棄した羽柴秀吉(豊臣秀吉)ですが、当然、織田信長から怒られています。
当然、進退に窮したようですが、織田信忠の指揮下に入って、佐久間信盛・明智光秀・丹羽長秀らと、謀反を起こしていた松永久秀の討伐(信貴山城の戦い)にて、活躍したため、許された模様です。

勢いに乗り、北陸方面では織田家より優位となった上杉謙信ですが、手取川の戦いから6ヶ月後の1578年3月に脳卒中(諸説あり)でこの世を去ります。
上杉謙信は最期の戦いでは勝利しましたが、織田信長包囲網は崩壊し、からくも柴田勝家は救われることになりました。

この4年後の1582年には、本能寺の変により、織田信長もこの世を去ります。
奇しくも、上杉謙信、織田信長、どちらも享年49歳です。




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ひとつ疑問が残るのは、勇猛果敢でも知られる織田家筆頭の柴田勝家が、なぜ、2万もの上杉勢の接近を、察知することができなかったのか?です。
松任城から手取川までは、僅か10kmほど、JR北陸本線でも2駅の距離です。
加賀の一向宗はすごい結束力もありますので、恐らくは一向宗によって、情報が遮られていたのでしょう。
柴田勝家は、七尾城が陥落しているとは知らずに救援するため、手取川を渡りました。
しかし、救援するはずの七尾城も落ちていたと分かり、もう、軍勢を向ける必要が無いからと、退却開始したところに、上杉謙信がうまく迫ったものと存じます。
織田家の軍記でも、敗戦した手取川合戦に関しては触れていないため、理由を見つけるのは困難ですが、織田勢の進軍が遅かったのは、恐らくは調略を行いながらであったと考えられます。
しかし、羽柴秀吉が撤退するじたいとなったように、上杉謙信を恐れていたとも、受け取れますが、もちろん、もっと違った事情があったのかも知れません。

さて、手取川の戦いの石碑がある場所ですが、当方のオリジナルGoogleマップにて、場所が分かるようにしてあります。

手取川古戦場

河川敷からほど近いところなのですが、道は昔ながらの集落でして、狭くわかりにくいですので、もしご訪問される場合には、よくお調べになられてからお願い申し上げます。

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コメント(4件)

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  • […] 本願寺顕如と和睦すると、足利義昭の要請を受けて、武田勝頼・北条氏政とも和睦し、反信長体制を築いた。 1576年11月には能登に侵攻し、長続連の七尾城を落城させたが、長続連から救援要請を受けていた織田信長は派兵を決意。 柴田勝家を総大将とする、羽柴秀吉、滝川一益、丹羽長秀、前田利家、佐々成政ら40000の大軍に、20000で対抗し、手取川の戦いにて織田勢を撃破した。 […]

     
  • 佐藤正太郎 より:

    謙信の情報力の正確さ、速さ、勇猛さは、信玄と並び
    戦国随一、とても柴田の及ぶものではなかった。 
     とくに情報力の速さは、川中島でも、実証済である
    やはり、軍神と云われる所以であろう。

     
  • […] その後、1570年、北条氏康と和睦した際、小机衆を率いていた北条氏康の七男・北条三郎(北条氏秀)が、人質として上杉家に送られたが、その後、上杉謙信が養子にした。 上杉謙信は美男だった北条三郎を大変気に入ったようで、上杉景虎の名を与えるなど、上杉家一門、そして後継候補として厚遇したようだ。ちなみに、仙桃院の長女(長尾顕景にとっては姉で名前不詳)が、上杉景虎の正室になり、2人は春日山城の二の郭に住んだ。 1575年、長尾顕景は名を上杉景勝に改めると共に、上杉謙信から弾正少弼の位を譲られた。 上杉謙信は1576年に越中を平定。1577年には織田勢が加賀に進軍。柴田勝家18000を先発させ、織田信長自身も30000で出陣したが、迎え撃った上杉謙信勢約20000と手取川の戦いで激突。上杉謙信は織田勢に大勝したと言われている。 1578年3月、関東遠征と考えられる侵攻準備のさなか、1578年3月13日に上杉謙信が死去(享年49)。脳卒中と言われており、突然の死であった為、後継者が決まっておらず、上杉景虎と上杉景勝の間で家督争いに発展する。 上杉景虎は御館に籠もって抵抗したので、御館の乱(おたてのらん)と言う。 上杉景勝は春日山城の本丸を占拠し、遺言により自分が後継者であることを近隣の諸氏に報じた。以後、約1年に渡り、上杉景虎との家督争いが続いた。 当初、上杉景虎勢は上杉景信・本庄秀綱・北条高広らを味方につけ、越後に迫る北条勢力に恐れをなす譜代家臣の支持を集めた。また、北条・武田の援軍が派遣され、上杉景虎が優勢であった。 しかしながら、上杉景勝勢は春日山城を抑えていた為、上杉謙信が残した城内の資金を使い対外工作に成功。春日山城には2万7140両の蓄えがあり、武田勝頼にはそのうち1万両を送ったと東上野の割譲を約束したとも言われている。 最終的には武田勝頼も上杉景勝に鞍替えし、1578年12月には武田信玄の娘・菊姫を上杉景勝の正室に嫁がせ上杉景勝と武田勝頼が同盟するなど、上杉景虎を孤立させた。 1579年2月1日、御館の上杉景虎はついに逃亡。正室だった上杉景勝の姉は降伏勧告を拒んで自害(享年24歳?)。 上杉景虎は出身地の北条を頼るべく小田原を目指すが、途中、立ち寄った鮫ヶ尾城で鮫ヶ尾城主・堀江宗親の謀反に遭って、もはやこれまでと自害。(享年24歳) もともと、家臣の争いが絶えない、上杉家を象徴するかのように、その後も栃尾城・本庄秀綱、三条城・神余親綱らが上杉景勝に抵抗するが、上杉景勝勢は攻略し名実共に越後の後継者となった。 この御館の乱で、樋口兼続(のちの直江兼続)は父・樋口兼豊や弟・樋口与七と共に上田衆を率いて奮戦し、戦功があったとされ、1580年7月17日に、樋口兼続は河海免除の船一艘を与えられ奉行に就任した。 1580年8月15日には奉行職として佐藤庄左衛門、皆川式部丞に上杉景勝からの知行書を出すと言う重要な役割をしているのが確認できている。 その後、1581年4月24日には、樋口兼続の名で、新潟の船江明神に諸役を免除する書状を出している他、6月3日には、松倉城主・上条宜順が加賀・能登の敵情を探って樋口兼続に報告するなど、以後、頻繁に書状などにて兼続の名が確認できている。 […]

     

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