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浅井畷の戦い~北陸での関ケ原は西軍が勝利したか?

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浅井畷の戦い(あさいなわてのたたかい)は、戦国時代の慶長5年(1600年)8月9日にあった北陸における「関ヶ原の戦い」です。
本物の関ケ原合戦は、1600年9月15日ですので、浅井畷の戦いは約1ヶ月早い「前哨戦」と言う事になりますが、なぜ、石川県の小松城近くで合戦になったのでしょう?

徳川家康が大勢の武将を従えて、上杉景勝の会津征伐のため、大阪城豊臣秀頼に挨拶して、出陣したのは1600年6月16日です。

敦賀城主の大谷吉継も3000を率いて、最初は徳川家康に合流しようとしました。
しかし、石田三成から決起することを打ち明けられて、西軍についています。

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こうして、石田三成は大谷吉継・増田長盛安国寺恵瓊佐和山城にて秘密会議を行い、引き続き徳川家康を追って東へ進む諸将を食い止める関所を設けたのが7月12日です。
その結果、徳川家康に追い付こうとしていた、長宗我部盛親鍋島勝茂、前田茂勝(前田玄以の子)は、西軍に参加せざるを得なくなり、島津義弘伏見城に入れず、やむを得ず西軍となりました。

大谷吉継は北陸方面の諸将を西軍に引き入れるため、敦賀城に戻り越前・加賀の諸大名を調略開始します。
その結果、下記の武将らが西軍に味方することになりました。

青木一矩北ノ庄城、21万石)
青山宗勝越前・丸岡城、4万6000石)
織田秀雄(越前・大野城、5万石。織田信長の次男・織田信雄の子)
木下頼継(2万5000石、大谷吉継の次男?)
丹羽長重加賀・小松城、12万5000石。丹羽長秀の子)
丹羽長正(越前・東郷城、5万石。丹羽長重の弟)
戸田重政(越前安居城、1万石)
奥山正之(1万1000石)
赤座直保(1万石)
上田重安(1万石)
溝江長晴(1万石)
山口宗永(加賀・大聖寺城、5万石)
山口修弘(1万3000石、山口宗永の長男)

ほとんどの北陸の武将を西軍に引き入れていますので、大谷吉継はスゴイですね。

しかし、金沢城の前田利長は、前田利家の死後、生母・芳春院(まつ)を、人質として江戸城に出していたため、徳川家康の東軍に味方します。
そのため、北陸の西軍武将は、そのまま多くが北陸に残り、前田利長に備えることになりました。

そして、石田三成らは、7月19日に鳥居元忠らが守る伏見城を攻撃開始し、伏見城の戦いとなります。
この攻撃が、明確な石田三成の挙兵となり、鳥居元忠の使者によって徳川家康に知らされたのが、7月24日の小山城でのことです。
そして「小山評定」となりました。

前田利長は加賀より南の諸大名が、全員敵になり危機感を抱きます。
そのため、2万5000の兵を出して、まずは、7月26日に、丹羽長重の小松城を包囲して攻撃しました。
小松城は3000の守備兵でしたが「北陸無双ノ城郭」と小松軍記にあるように、泥沼や深田が広がっている堅固な守りで、丹羽勢もよく戦ったため、前田利長は押さえ兵を残して、大聖寺城へと向かいました。

大聖寺城は山口宗永・山口修弘の親子が守備していました。
2000対20000とも、500対20000とも言う、8月2日の大聖寺城の戦いで山口宗永と山口修弘は自刃し、前田利長は勝利しました。

山口宗永と大聖寺城の戦い~関ケ原の際には前田勢2万に500で挑むも?

伏見城の戦いが8月1日に決着し、参じていた大谷吉継は、6000を率いて北陸に転進すると、8月3日に越前敦賀に戻りました。
そして「上杉景勝が越後を制圧し、加賀をうかがっている」「西軍が伏見城を落とした」「西軍が上方を全て制圧した」「大谷吉継が越前北部に援軍に向かっている」「大谷吉継の別働隊が、金沢城を急襲するために海路を北上している」など、流言を流したため、前田陣営は動揺しています。
少しだけ、本当の話が入っているのが絶妙でして、大谷吉継らしい計略です。

さらに、大谷吉継は、挙兵した際に捕縛していた中川光重(前田利家の娘婿)を脅して、前田利長宛の偽書を作らせます。

「今度大軍を催サレ、近国ヲ打ナビケ、上方発向有之由聞候。是ニ因リテ、大坂ヨリ大軍、敦賀表ヘ出張ス。大谷刑部、敦賀ヨリ兵船ヲ揃エ、貴殿出軍ノ跡を加州ノ浦々へ乱入セント欲ス。足長ニ出発候テ、海陸前後に敵を受ケタマヒテハ、始終覚束ナク候。能々御思慮有ルベシ」

これらの情報から、前田利長は、金沢城が海路から襲われることを恐れ、8月8日に軍勢を金沢に戻し始めました。

前田勢の多くは御幸塚城(小松市今江町)に入り、前田利長自身は三道山城(能美郡寺井町三道山)に入りました。
そして、御幸塚城の諸将は、その後の合流に関して軍議しました。
撤退するにしても、退路の途中には、まだ落としていない小松城があったためです。
しかし、敵をよけて迂回しては、加賀武士としては恥だと言う事で、7隊(一説には6隊)の軍を編成して、小松城の丹羽領を突破することにしました。
七隊の大将は先鋒から順番に、山崎長徳・高山右近・奥山栄明・富田直吉・今枝民部・太田長知、そして殿軍は長連竜(六隊説では殿軍が太田長知)と、そうそうたる面々です。

大軍の行動ゆえ、隠密にと言うわけにはいかず、丹羽長重は前田勢が、金沢に撤退するのを察知して、小松城から撃って出ました。
こうして、浅井畷(あさいなわて)にて野戦となりました。

畷(なわて)と言うのは、たんぼ道と言うような意味です、

浅井畷の戦い

1600年)8月9日、前田利長25000(東軍)と丹羽長重3000(西軍)との合戦となったのが、浅井畷の戦いです。

丹羽長重は、浅井畷にて前田勢を待ち伏せしました。
そこを、前田勢は御幸塚城を出て、殿軍の長連竜隊が大領野から山代橋方面へ向かおうとします。
すると、丹羽勢の伏兵となっていた勇将・江口正吉(江口三郎左衛門正吉)が、長連竜の部隊を急襲しました。

折りしも、夜半からの雨が降っていたようで、鉄砲が使えない状況でもあったようです。
畷になっていますので、道幅が狭く、大軍の前田勢は、圧倒的兵力を生かすことができない状況で白兵戦となりました。

丹羽勢としては松村孫三郎・雑賀兵部・寺岡勘左衛門ら多数の将が討死しています。
前田家でも、連龍や山崎長徳らが活躍しましたが、長家の九士である小林平左衛門・隠岐覚左衛門・長中務・鹿島路六左衛門・八田三助・鈴木権兵衛・堀内景広・柳弥兵次・岩田新助らか討死しました。

先に抜けていた先発隊と松平康定が、救援に引き返した頃には、丹羽勢は退いており、前田勢は何とか金沢城に撤退することができたのです。
一番槍は松平康定と認定されました。

なお、前田家の上阪又兵衛が、丹羽勢を追撃しようとしたところを、山崎長徳が止めたとして、のち、山崎長徳は前田利長より叱責されたと言われています。
ただし、山崎長德はこの戦功で1万4000石と出世も果たしています。

その後、8月末頃に、前田利長は徳川家康からの命を受けて、弟・前田利政の軍務放棄に悩まされながらも美濃へ向かうべく、9月11日に再び西上を開始します。
そのため、9月18日に、丹羽長重は前田利長に降伏しました。

しかし、すでに9月15日の本戦にて石田三成は敗走していたため、前田利長は間に合いませんでしたが、前田家から前田利常(まえだ-としつね)を和議の印として、丹羽長重に差し出しており、かなり気遣っています。
小松城にて人質となった前田利常(6歳)には、丹羽長重が自ら梨を剥いて与えたともあり、まぁ、お互いに気を使っています。

そして、北陸での行動は徳川家康に認められ、前田利長は、弟・前田利政の能登・七尾城22万5000石、西加賀の小松城12万石、大聖寺城6万3000石が加領され、加賀・越中・能登の3ヶ国合わせて122万5000石を有する、日本最大の加賀藩が成立しました。
丹羽長重は戦後に一旦改易となり、所領を失いましたが、1603年に常陸・古渡城1万石となって大名に復帰を果たしています。

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さて、浅井畷の戦いの勝敗ですが、一般的な説では、このように、丹羽勢は負けたとか、引き分けだったなどと言われています。
しかし、2万以上の大軍の前田勢が、もし、浅井畷で勝利していたら、3000そこそこの小松城も落としていたのではと考えます。
このように、小松城は引き続き丹羽家のもので健在だったのと、前田勢の堀内景広が討死していること、丹羽長家(30歳)と和睦した際に、前田利長(39歳)のほうから人質を出していると言う事を考慮しますと、前田勢の負け戦であり、戦力をその場で立て直すこともできず、金沢に敗走したのではと考えてしまいます。
その裏では、大谷吉継に金沢が襲われると言う恐怖もあったことでしょうから、やはり、大谷吉継、スゴイです。

浅井畷古戦場跡は、現在、住宅地の一角に小さな公園として史跡になっています。
長連龍の家来9人も戦死したと伝わり、古戦場には9基の石塔が建てられていました。
場所は、当方のオリジナル地図にて分かるようにしておりますので、もしよければ、小松城との距離感なども確かめて頂けますと幸いです。

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