島津豊久とは~軍法戦術に妙を得たりと評された名将が眠る島津豊久の墓

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関ヶ原の戦いにて有名な「島津の退き口」を演じ、島津義弘らを逃がすために、自ら殿を務めて討死した「島津豊久」の墓が、関ヶ原から車で20~30分ほど南下した、裏伊勢街道沿いにあります。
まずは、その島津豊久とはどのような武将だったのか?、ご紹介したいと存じます。

島津豊久とは

島津豊久(しまづ-とよひさ)は、1570年6月、島津家久の子として生まれました
母は樺山善久の娘です。

父・島津家久が1577年頃に佐土原城主となると、1584年3月の田畷の戦いでは龍造寺隆信を討ち取り、1586年には戸次川の戦いでも、仙石秀久長宗我部元親長宗我部信親十河存保ら豊臣勢の先発隊に大勝利を収めています。
しかし、兄には島津義久・島津義弘・島津歳久と3人いた為、若い頃は兄の陰に隠れる形となっていますが、決して平凡な武将ではなかったようです。
そんな中、生まれた嫡男・島津豊久(15歳)が、1584年3月、沖田畷の戦いにて初陣となった際には、父・島津家久がこのような言葉を掛けたと言います。

あっぱれな武者振りである。ただ上帯の結び方はこうするのだ。

と結び直し、脇差にてその帯端を切ると

よく聞け。もし勝って討死しなければ、この上帯は我が解こう。
だが今日の軍で屍を戦場に晒す時は、切った上帯を見て、島津が家に生まれた者の思い切ったる所作と敵も知り、我もその死を喜ぶであろう。

こうして、龍造寺隆信と鍋島直茂の大軍を相手に、有馬晴信と父・島津家久と島津豊久らは、敗走して退却したと見せかけて、伏兵による挟撃にて大勝利を得ました。
ちなみに、ルイス・フロイスは父・島津家久のことを「きわめて優秀な武将」と称賛しています。

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しかし、1587年に、父・島津豊久が佐土原城にて急死した為、18歳の島津豊久が家督を継ぎました。
ただし、豊臣秀吉の九州攻めにて、主君・島津義弘もついに豊臣家に臣従します。
なお、父の死後は、島津家当主の島津義弘が良く面倒を見てくれたようで、恩義を感じるようになったとも言われています。

島津豊久の正室には島津忠長の娘を迎えましたが、子はできませんでした。

1590年には小田原攻め、その後、朝鮮攻めにも参じて転戦しています。
1599年には、庄内の乱でも戦功を上げました。

そして、1600年、関ヶ原の戦いの際には、島津義弘に従って西軍として関ヶ原にも布陣します。
石田三成らが敗走し、孤立した島津勢は敵中突破を試み、伊勢街道を南下する撤退戦を行いました。

この時、島津豊久は殿(しんがり)を務めて、井伊直政本多忠勝らの追撃隊と奮戦します。
島津義弘を逃がすと、全身に無数の矢を受けて身代わりとなり討死しました。享年31。

伝承では、複数の槍にて島津豊久は、3度も突き上げられ、陣羽織もボロボロになったと伝わります。
この島津の退き口における、島津豊久らの活躍にて、辛うじて島津義弘は薩摩に帰還する事が出来たのです。

島津豊久の鎧が現存しており、そのレプリカが日置市中央公民館にて展示されている都の事です。

島津豊久の墓(島津塚)

島津の退き口にて、島津豊久が討死したとされる場所は、諸説あります。
一説では、島津豊久の碑がある伊勢街道の烏頭坂にて勇猛果敢に戦って瀕死の重傷を負い、家臣・川口運右衛門らによって運ばれましたが、上石津の樫原付近で死亡したとされています。
この場合、島津豊久は烏頭坂にて討死し、亡骸を敵に渡さないため、家臣らが上石津まで運んだとも推測可能です。

いずれにせよ、家臣・川口運右衛門は、上石津までたどり着くと、庄屋・三輪内助の協力を得て、正覚山薬師寺にて島津豊久を荼毘に付したようです。
そして、薩摩に一度戻ったあと、遺骨を引き取りに来ると言い残して去ったようですが、川口運右衛門がその後、どうなったのか?、島津家から引き取りが無く、この地にて供養する形となったようです。

その後、江戸時代に正覚山薬師寺が廃れてしまい、1738年に三輪内助の子孫・三輪孫大夫が夢を見て、薬師寺の代わりに高輪山瑠璃光寺を興しました。
そして、島津豊久の位牌を安置すると共に、瑠璃光寺(るりこうじ)の近くに島津豊久の遺骨を改葬したとあり、下記の地図ポイント地点に「島津塚」と呼ばれる場所があります。
その島津塚が島津豊久の墓であると言う説が一般的になっています。

島津豊久の墓(島津塚)

各写真はタブレット・パソコンの場合、クリックすると拡大致します。
注意していたのですがカメラのレンズに「雨」がついてしまい、写真の随所が「白っぽく」なってしまっておりますこと、お許し願います。

島津豊久の墓(島津塚)

落ち延びてた島津豊久の一行を、村人が拒絶したため島津豊久は自刃したので、その祟りで墓所に草木が生えないと言う話。
または、三輪内助や村人は島津豊久を必死に看病するも、徳川勢から村人に迷惑が掛かるのを恐れて、島津豊久が自害したと言う伝承もあるようです。

島津豊久の墓(島津塚)

島津豊久の墓(島津塚)の場所

毎年、島津家に縁のある鹿児島県の小中学生もここを訪れておられるそうです。

島津豊久の墓(島津塚)入口

島津豊久の墓(島津塚)がある場所は下記の地図ポイント地点となります。
地図は縮尺を変えたりして、よくご確認願います。

上記地図のポイント地点から森の中に通じる通路があります。

島津豊久の墓への入口

この通路を約10m進むと島津豊久の墓(島津塚)があります。
島津豊久の墓(島津塚)に駐車場はないのですが、交差点の向かいにある公民館の駐車スペースを拝借させて頂きました。

すぐ近くの瑠璃光寺(瑠璃光禅寺)※トップ写真※は、島津豊久の菩提寺にもなっており、島津塚の維持管理も行っています。

瑠璃光寺(瑠璃光禅寺)と島津豊久の墓(島津塚)の場所・位置関係は、下記のオリジナルマップにてご確認願います。

[clink url=”https://sekigaharamap.com/googlemap/”]

江戸時代、島津家は江戸へと向かう参勤交代の途中、瑠璃光禅寺や島津豊久を介抱したとされる三輪家へ謝礼の使者を出し、瑠璃光寺へは祭祀料も欠かさなかったと言われています。

さて、薩摩・島津家は、改易になってもおかしくはなかったと思いますが、西軍で関ヶ原にて戦った大名家としては、唯一の「本領安堵」(寝返りした大名を除く)となりましたので、討死した島津豊久ら将兵の思いも無駄にはならなかったと言えるのではないでしょうか?

追伸

ここ上石津は、明智光秀の出身地であると記載がある系図もあるそうです。

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査・研究しております。
自慢できるものはありませんが、資格は史跡訪問のための国内旅行地理検定2級、水軍研究のための小型船舶操縦士1級など。

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コメント(5件)

  • […]  1600年、徳川家康が上杉景勝を討つために会津征伐に出ると、島津義弘は徳川家康から援軍要請を受けて1000の軍勢を率いて伏見城へ向かった。  しかし、伏見城を守る鳥居元忠が、徳川家康が援軍要請したことを聞いていないとして入城を拒否したため、島津義弘は西軍への見方を決意した。  本国の兵の動員権限は、兄・島津義久にあった為、大阪の僅かな兵士か動員できなかったようだ。島津義弘は国元に援軍を要請したが、島津義久も島津忠恒も動かなかった。  その為、石田三成らは、僅かな手勢の島津義弘を軽視し、前哨戦で島津義弘隊を見捨てたり、島津義弘の案を退けたりしている。  そのような事もあり、関ヶ原の戦いでは、西軍として陣を張ったものの島津義弘は動かなかった。石田三成の家臣・八十島助左衛門が使者として島津義弘に要請しても「陪臣の八十島が下馬せず救援を依頼した」として、島津義弘や甥の島津豊久は激怒して追い返している。  毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親などは傍観し、小早川秀秋、脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保ら西軍諸将の寝返りにより、石田三成や小西行長、大谷吉継、宇喜多秀家らが総崩れとなると、島津義弘は退路を遮断された為、切腹しようとしたが、甥の島津豊久の説得を受けて敵中を正面突破。徳川勢の井伊直政、本多忠勝、松平忠吉らの追撃を受けたが、島津勢は、何人かずつが留まって死ぬまで敵の足止めをし、それが全滅するとまた新しい足止め隊を残すという壮絶な撤退戦法を用いた。島津豊久は重傷を負ったが、かろうじて島津義弘は撤退に成功。生きて薩摩に戻ったのは、わずか80名だったと言われるが、この退却戦は「島津の退き口」と呼ばれ全国に名を轟かせた。  島津義弘は摂津・住吉に逃れていた妻や立花宗茂らと合流して、共に海路から薩摩に逃れ、島津義弘は徳川家康に恭順の意を示すため、桜島に蟄居。  その後、井伊直政や本多正信を頼り徳川家康への取り成しをするも、当主出頭要請を拒み軍備を増強し続けた島津家の態度に、徳川家康は島津討伐軍を号令。  加藤清正、黒田官兵衛・黒田長政ら30000の兵が向かったが、島津勢の主力兵力は関ヶ原に出していなかった為健在で、睨み合いとなった。  長期戦となると、他での反乱を招く恐れもあったことから、徳川勢は撤退し、1602年に赦免され、西軍にあった大名として唯一の本領安堵となった。 […]

     
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