八十島助左衛門(やそじま-すけざえもん)は、石田三成の家臣としてその名が見受けられますが、右筆だったようです。
豊臣秀吉が伏見城にて死去した際に、石田三成が徳川家康に知らせた際の使者だったのが、八十島助左衛門と言う事になります。
また、八十島助左衛門は朝鮮攻めの際にも、豊臣家と島津義弘との申次を務めている武将でした。
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そのような経緯もあり、関ケ原の戦いの際、八十島助左衛門は、石田三成の命を受けて、島津家に対して、攻撃開始するように伝える使者(使番)を果たしています。
もちろん、関ケ原合戦の火ぶたが切られてからも、島津家が動かなかったためです。
八十島助左衛門は旗本の磯野平三郎と入江権左衛門を連れて、矢玉を避けながら笹尾山の裏手から、五町ほど馬を走らせて島津義弘の陣に辿り着きました。
この日、2回目の島津陣への訪問であったとも考えられています。
そして、島津家には何度も使者として面識もあったからか?、急ぎ伝えたかったのか?、馬上から攻撃要請を告げます。
「はや潮時と存ずる。島津の方々、出陣なされい。」
これに対して島津豊久は「出陣を頼むのに馬上から怒鳴るとは何事か」と、陪臣の八十島が下馬せず救援依頼したのを怒り、持っていた鞭を八十島助左衛門に対して投げつけたとされています。
更に、島津豊久の家臣らが鉄砲を放ったとも、八十島助左衛門を取り囲んで、馬から引きずり降ろしたともされ、地面に首を押さて、締め付けたことから、八十島助左衛門は恐れをなして逃げ帰ったとあります。
※そのまま戦場から逃亡したともされています。
これを受けて(1時間経過しても八十島が帰ってこなかったからとも)、石田三成が直接、島津の陣に出向いて話をしました。
しかし、すでに井伊直政、松平忠吉勢の攻撃に対して、島津義弘は防戦しており、残り兵力も1000ほどとなっているとして、余力なしと断わりました。
石田三成は、あてにしていた笹尾山の小早川秀秋に対して、徳川勢への攻撃開始の狼煙を上げますが、15000の軍勢は大谷吉継へ攻撃したのでした。
なお、関ケ原のあと、八十島助左衛門は藤堂高虎に召し抱えられたようです。
藤堂高虎が、自分の生涯を記載した巻物を、徳川家光の御前で披露する際に、酒井忠勝は道春(林羅山)に読ませようとしました。
しかし、藤堂高虎は、自分のことを終始知っている者に読ませたいと、八十島助左衛門(道壽)を召し出して、書物を読ませたと言います。
なお、八十島助左衛門(道壽)の出自ですが、織田信長が滅亡させた斯波義統?の家臣に、八十島道染、八十島虎仍助左衛門道除、八十島宣重加賀右衛門、八十島豊英助左衛門がいます。
八十島助左衛門(道壽)の子も、八十島助左衛門を称したようですので、恐らくは代々、八十島助左衛門と名乗ったと考えられますので、八十島虎仍助左衛門道除と八十島助左衛門(道壽)は大きく関連性がありそうです。
ただし、八十島虎仍助左衛門道除は、朝倉家臣の八十島道染の子と、八十島虎仍とされ、孫の今立助左衛門豊英は福井・松平家に仕えました。
また、前田家にも仕えている八十島氏がいますので、正直なところ、よくわかりません。
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