長宗我部盛親陣址~九十九坊・栗原連理のサカキにあった陣跡【垂井町の関ヶ原合戦史跡】

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長宗我部盛親の陣跡(長宗我部盛親陣址)は、垂井町栗原にあります。
約6000の兵にて栗原山麓に陣を置きました。
長宗我部盛親は、長宗我部元親の4男となります。
長宗我部元親は1599年5月に死去しており、その後を長宗我部盛親が継いでいました。

長宗我部盛親は徳川家康の求めに応じて、最初は東軍に加わろうとしていたようです。
しかし、水口城に差し掛かった時に、長束正家に進路を阻まれ、やむなく西軍に加担したとされています。

そして、毛利秀元吉川広家安国寺恵瓊・長束正家ら、徳川家康本陣が置かれた「桃配山」の背後となる南宮山に布陣しました。




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関ヶ原の戦いにおいては、徳川家の調略を受けていた吉川広家が、西軍の総大将代理とも言える毛利秀元らが出陣するのを阻害する場所に陣取ります。
そして、毛利勢の動きを拘束しました。

長宗我部盛親らが吉川広家に最初出陣を促すと「霧が濃い」ことを利用に断られ、次には「これから弁当を食べる」と言われ、有名な「宰相殿の空弁当」(さいしょうどののからべんと)と言う言葉ができました。

その結果、西軍の石田三成らは敗れて敗走したため、毛利秀元・吉川広家・安国寺恵瓊・長束正家・長宗我部盛親ら、南宮山に布陣した面々は、戦わずに撤退しています。

長宗我部盛親陣跡

長宗我部盛親は井伊直政を通じて徳川家康に謝罪しようとしましたが、結果的に土佐22万石は所領没収となり、一領具足として知られた家臣らは路頭に迷う事になりました。
そして、長宗我部盛親は謹慎処分となり、以後、京都にて京都所司代・板倉勝重の監視下に置かれます。
寺子屋にて子供たちに勉強を教えていたと言う逸話も、良く知られます。
1614年、豊臣秀頼の招きを受けると京から脱出して大阪城に入り、真田幸村(真田信繁)らと共に豊臣家の為に戦いました。




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木下秀吉「三顧の礼」の竹中半兵衛隠棲地

ちなみに、ここ栗原山は栗原城とも呼ばれ、かつては浅井亮政が攻めて来た際に土岐頼芸が陣を張った場所でもあるようです。
そして、竹中半兵衛が稲葉山城の乗っ取りをしたあと、謹慎した場所でもあります。
となると、豊臣秀吉(木下秀吉)が「三顧の礼」を尽くして訪れたのもココと言う事になります。
長宗我部盛親陣跡から、さらに山へと30分ほど入った場所に、竹中半兵衛隠棲の碑があるそうですが、今回は関ヶ原の戦い限定での事前調査でしたので、そこまでは考慮していませんでした。
このように史跡巡りの度に、例によって「宿題」ができてしまいます。
機会があれば、また訪問してみたいと思います。
しかし、豊臣秀吉(31歳)が名軍師として懇願した竹中半兵衛(24歳)がここで隠棲していたと思うと、非常に考え深い地です。
もし土地所有の問題が解決できれば、ここは是非公園整備して欲しいと思う大変貴重な場所でした。
最近は町民や興味ある方から寄付金も募って整備すると言う方法もできますからね。

なお、関ヶ原の戦いにて、長宗我部盛親は伊勢方面へ撤退しようとしましたが、牧田川を挟んで松ノ木城主・徳永寿昌600と、今尾城主・市橋長勝300に迎撃されたようです。
この牧田川金谷での合戦は「金屋川原の戦い」と呼ばれていますが、下記のページにて別途ご紹介させて頂きます。

[clink url=”https://sekigaharamap.com/kanayakawara/”]

さて、長宗我部盛親陣址への行き方・アクセスですが、非常に分かりにくいです。
下記の地図ポイント地点から西の山へ続く、未舗装路を入って行きます。

一応、交差点には方向を示す案内板があるのですが、小さいので、見落としがちです。
「九十九坊・栗原連理のサカキ」への道標が設置されているところを曲がります。
未舗装路を奥まで入ったところが「清水寺公園」と言う寺院跡で、駐車スペースもあるので、そこまで、車で進入可能です。
その行き止まりの所に長宗我部盛親陣址の案内板があります。

「九十九坊」は1335年の戦火で既に廃寺となっており、その跡地に陣を置いたものと考えられます。

象鼻山も長宗我部盛親の陣跡か?

自宅に帰ってから色々と調べているうちにわかってきたのですが、このページにてご紹介している「長宗我部盛親跡」よりも、ちょっと南に「象鼻山」があります。
この象鼻山は「栗原城」とも呼ばれた古城から尾根続きで「出丸」のような突き出た山です。
実際に、長宗我部盛親はこの古い栗原城そのものを陣地にした可能性も高く、そうなると、南の多良街道を抑える為、象鼻山にも部隊の一部を配置したことは充分に考えられます。
もちろん、南宮山に布陣した毛利秀元の一部の部隊が陣取ったとも推定できます。

象鼻山には古墳がいくつもあるそうで、現地では「象鼻山古墳」として紹介されている事の方が多いです。
ただし、毛利輝元が関ヶ原に派遣した「大坂弓鉄砲衆」がここに陣を置いたとも考えられているようです。

ちなみに、丸毛兵庫頭・稲葉備中守等奮戦の地の石碑がある道路の山側から登山口があるようです。
ここ「象鼻山」も今後の課題となりましたので、機会があれば訪れてみたいと思います。

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