徳川家康最初陣跡~桃配山に布陣した徳川本陣跡【関ヶ原の史跡】

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関ヶ原の戦いの際に、徳川家康が最初に本陣を置いた場所は「桃配山」となります。
現在、桃配山(ももくばりやま)にある「徳川家康最初陣跡」は国史跡に指定されており、国道21号沿いの階段を登って2分ほどの山腹にあります。

1600年9月14日の夜、西軍が大垣城から関ヶ原方面に向けて動いたと言う事で、美濃赤坂の岡山本陣にいた徳川家康も、雨が降る中、夜中の2時にあとを追い、朝6時頃に関ヶ原の「桃配山」に本陣を置きました。

ちなみに、桃配山は、672年の壬申の乱の際に、大海人皇子が野上行宮から出陣して本陣を置いたとされる地でもあります。
この時、関ヶ原の村人が「山桃」を献上したところ、大変おいしかったと言う事で、大海人皇子は代金を支払い大量に用意させると、兵士らは配ったと言います。
これが「桃配山」の由縁です。
この古い時代に関ヶ原にてあった壬申の乱の戦いも、戦国時代同様に「天下分け目の戦い」とされますが、その時、ここに陣を張った大海人皇子は勝利しています。




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そんなことを徳川家康が知っていたのかは、定かではありませんが、徳川家康最初の陣跡には、徳川家康が使用したと言われる「腰掛石」と「机石」が現存します。

桃配山(徳川家康最初陣跡)

ここで徳川家康は「厭離穢土・欣求浄土」(おんりえど・ごんぐじょうど)の馬印を立て「軍議」(作戦会議)を開きました。

戦闘が開始され、近習の侍が誤って騎馬に乗ったまま本陣に入ると、立腹した徳川家康は傍らにいた小姓の「指物」を筒の先より刀で切り落としたと伝わります。
当時、ピリピリした心境の徳川家康を想像できますね。

朝10時頃になると、多数の鉄砲が放った煙で、関ヶ原の戦況が見えにくくなったのと、若干、東軍が押されているとの事で挽回するべく、なんと徳川家康は陣を引き払って「徳川家康最後陣」と名付けられた、笹尾山から約600mの場所へ本陣を移しました。

ここ桃配山はその名のとおり「山」の高台ですので、ある程度防御面で有利ですが、徳川家康最後陣の場所は、北国街道沿いの平地です。
その為、寝返り工作による勝算があったとしても、まだ朝10時、11時では松尾山小早川秀秋も動いていませんので、恐らく本陣を前進させたと言う判断は、全軍の「士気」を高めたかったのだろうと推測致します。

大将が戦っているまさに戦場のすぐ近くまで押し出して来れば、東軍の将兵は勇気づきますからね。
ただし、若干、戦況が不利な状況でしたので、それを承知で前進したならば、徳川家康としても勇気が必要な行動です。
仮に南宮山毛利秀元らが山を下りれば、それこそ挟み撃ちに会います。
そんな状況でも、必要な時にはリスクを承知で実行すると言う所は、さすが勝負どころ知っている59歳の徳川家康と言えるのではないでしょうか?

徳川家康最初陣の入口

徳川家康最初陣地「桃配山」にも、大き目な無料駐車場がありますが、国道21号の反対車線側(北側)となります。
国道を横断する際には、車にどうぞご注意願います。

下記の地図ポイント地点の場所が駐車場となります。
地図は縮尺を変更してご確認願います。




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徳川家康本隊の武将

旗奉行(槍奉行)–村串与三左衛門、酒井重勝(兼使番)
長柄頭–荻原昌友、窪田忠知等八人
大番頭–松平重勝、松平康安、水野重央
小姓組頭–石川忠総
百人組頭–成瀬正成(兼使番)、伊奈令成
鉄砲頭–安藤直次、加藤正次、高山盛聡(与力十騎、同心百人、二百人扶持)、水野清久、嶋田直時(五十人頭)、柘植彦広(二十人頭)、蜂屋定頼、依田信次
玉薬奉行–榊原直貞
弓頭–八田森右衛門
遣奉行–河野盛利
持筒頭–渡辺守綱
徒行頭–近藤季用
手鷹師同心指揮–間宮信盛・間宮元重
使番–米津親勝(兼軍奉行)、小栗忠政(兼軍奉行)、牧長勝、山本重成、横田尹松、初鹿昌久、犬塚忠次、服部政信、阿部八右衛門、城昌成、小笠原次右衛門、鈴木信光、山上久忠、島田重次、西尾利氏、保坂金右衛門、真田信昌、間宮伊治、中沢吉政、小栗久次、戸田直頼、土屋昌吉、石野義利、奥山冶右衛門、山城忠久、米倉信継、牧原正次など
馬前–本多正純(床机代わり、神谷清次が従っている)、西郷忠員(仮の武者奉行)
腰物番–久留正次
膳番–加藤正重、近藤正成
旗本備–松平忠良、永井白元、大島光義、丹羽氏次(前備)、渡辺重綱、加藤成之、曲渕正吉、水野忠清、永井直勝(右備)・永井尚政、伴重盛、内藤信正(近習)、由良貞繁(直勝組下)、松平忠明、松平勝政、松平正久・松平正次、本多康俊、戸田氏鉄、鳥居成次、山口直友、西尾吉次(左備)、北条氏盛(吉次組下)など
諸軍指揮–本多正重
後備–奥平信昌大須賀忠政、本多成重、戸田尊次・戸田忠能、遠藤慶隆、金森可重など
後列指揮–久世広宣、坂部広勝
従軍僧(軍師)–天海

上記の徳川本隊「使番」にある真田信昌は、真田昌幸の弟・真田信尹と推定されます。
しかし、徳川本隊の武将クラスだけでこんなに大勢いると、誰に何を担当させるのか?、決めるだけでも大変そうです。

その他、徳川勢(東軍)として関ヶ原の戦いに参加していると考えられる武将は下記に順次追加して参ります。

柴田勝重(柴田勝家の孫)、小幡景憲(井伊直政の部隊に)

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