山内一豊陣跡~出世松がそびえる旧中山道沿いの陣跡【関ヶ原の史跡】

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山内一豊陣跡は、徳川家康が最初に本陣を置いた「桃配山」からもほど近い、旧中山道沿いにあります。
この旧中山道、ちょっと古い集落も街道沿いに残っており、非常に趣がありますので、自転車や徒歩でゆっくりと訪ねて見たくなるところです。

山内一豊の陣跡がある場所には、大きな松の木がそびえ立っています。
この付近に2000を率いて布陣しました。




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山内一豊(やまうち-かずとよ)は、徳川家康の会津征伐に従っていましたが、小山評定の前日に、正室・山内千代から書簡が届きました。
「開封しないで家康公に届けるように」と書いてあり、そのまま差し出すと、書状には増田長盛長束正家から、西軍への加勢願いと大坂の詳しい状況が記されていたと言います。

そして、徳川家康が小山評定にて、上杉景勝攻めを中止し、改めて西へと転じた際に、その通り道の東海道沿いとなる居城・掛川城を、真っ先に城を徳川家康に提供し、率先して人質も徳川家に差し出しました。
この「城の提供」と言うのは、城を差し出す、すなわち「城を徳川家康にあげるので、自由に使ってください」と言う意味となります。
そして、東海道沿いの諸将も、妻子を大坂で人質に取られているなか、山内一豊に習って、それぞれ城を提供しています。
仮に東海道の城が1つでも西軍についたとすると、徳川勢は西に向かう途中、一戦を交える必要もあったでしょうから、徳川家康が感謝したのは間違いないでしょう。

関ヶ原の戦いが始まると、南宮山毛利秀元らが動かなかったため、徳川家康の命を受けて、有馬豊氏・蜂須賀至鎮と共に柴井(関ヶ原中学校付近)に前進して、戦闘に加わったようです。

こうして、約6万石だった山内一豊は、高知城主20万石へと出世したのでした。
そのため、山内一豊の陣跡に立つ大きな松の木は「出世松」として知られるそうです。

さて、山内一豊の陣があった場所ですが、下記の地図ポイント地点となります。
地図は縮尺を変えてご確認願います。

公式な駐車場ではないようですが、東隣に大きな駐車場(空き地?)があり、出入りできましたので、短時間だけ駐車させて頂きました。




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やまびこ路さんの資料室

関ヶ原から帰ったあとに知る事になったのですが、国道21号沿いにある、うどん・そば・和食の店「やまびこ路」さんは、浦が山内一豊陣跡と言う事で、なんとオーナーさんが自ら作った「資料館」が見学自由とのことです。

店内にも鎧や関ヶ原の戦いに関する歴史本などが置いてあり、歴女の方もたくさん訪れているらしいです。
名物は「天下分け麺」と言う事らしく、また、この「やまびこ路」さんに車を止めて、食事をしつつ、お店から山内一豊の陣へ繋がる道を経て、陣跡も見学できるとの事です。
この通路もオーナーさんが手作りしたとの事。

今度、関ヶ原を再訪した際には、是非、食事をさせて頂こうと存じております。

やまびこ路さんの場所は下記の地図ポイント地点となります。

営業時間は10時~17時(土日祝は21時まで)
火曜日定休との事ですが、変更になる場合もあるかと存じますので、最新情報にご留意願います。

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