浅野幸長陣跡~垂井一里塚がある旧中山道沿いに布陣【垂井町の関ヶ原合戦史跡】

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浅野幸長(あさの-よしなが)は、甲府城主21万石で、父・浅野長政より既に家督を譲られていました。

ちなみに、父・浅野長政は前田利長と共に、徳川家康暗殺の嫌疑を掛けられて、自ら謹慎中でした。
しかし、徳川秀忠に帯同することを許され、真田昌幸が籠城した上田城の攻撃にも参じています。

一方、浅野幸長は6500を率いて徳川家康に従っており、関ヶ原に参じた東軍としては徳川家康の本隊30000に次ぐ兵力を有していたと思われます。
その為か、毛利秀元15000が布陣した南宮山への備えとして、関ヶ原本戦が行われた場所からはだいぶ離れた垂井一里塚付近に布陣を命じられました。




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現在の旧中山道沿いにある垂井一里塚の史跡に「浅野幸長陣跡」の看板も併設されている形となっています。
この付近に浅野幸長は陣を構えたと言う事ですが、一里塚の西側は、ゆるい坂道の上となります。
よって、南宮山の西軍に備えると言う意味では、この坂の上側に陣を張ったものと推測致します。

浅野幸長は更に後方の池田輝政と共に、最後まで毛利秀元を牽制し、長束正家長宗我部盛親が撤退開始すると、追撃しました。
そして、関ヶ原の戦いのあと、浅野幸長は、紀伊・和歌山城主として37万6千石もの大名となりました。

父・浅野長政も許され徳川家康の近くにて務めると、のち常陸・真壁藩主として5万石もの隠居料を与えられています。
この真壁・浅野家の子孫(分家)が、赤穂藩主・浅野内匠頭(浅野長矩)に繋がり、有名な赤穂浪士の事件となったのは言うまでもありません。

浅野幸長陣跡は、山内一豊と同じ「旧中山道沿い」となりますが、関ヶ原町ではなく隣の垂井町となります。
そのため、関ヶ原町の観光ガイドマップには当然掲載されていません。

浅野幸長陣跡

また「垂井一里塚」が国指定史跡になっていることから、垂井町では一里塚のほうが有名で、浅野幸長陣跡と言うよりは垂井一里塚が目印となります。
ただし、関ヶ原の戦いのあとに、徳川幕府は街道を整備しましたので、一里塚が設置されたのは、1604年と考えられます。
ちなみに、国史跡として残されている中山道の一里塚は、2箇所だけで、あとは東京都板橋区にある志村一里塚となりますので、貴重な史跡です。

JR東海道本線「垂井駅」からだと、徒歩約25分となります。
車の場合には駐車場が無いので、ちょっと困ったのですが、旧中山道沿いの路肩が広い所に止めさせて頂きまして、雨の中ダッシュで、1枚だけ撮影させて頂きました。

垂井一里塚の隣には「日守のお茶所」がありますが、営業は日曜日の昼間だけなようです。

下記の地図ポイント地点が、浅野幸長陣跡(垂井一里塚)となります。

地図は縮尺を変更してご覧頂けますと幸いです。

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