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台頭する龍造寺隆信
九州の西にある肥前国内で頭角を現してきた龍造寺隆信。
龍造寺軍の侵攻を察知した肥前国・平戸の松浦鎮信は、九州北部から西日本にかけて強大な勢力を誇る大友宗麟に救援の依頼をした。
大友宗麟は、直ちに唐津城・波田氏に救援を命じるが、伊万里の合戦で龍造寺側に寝返ってしまう。
波田氏の寝返りによって背後を突かれた松浦鎮信は、敗走を余儀なくされた。
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その後も大友宗麟の命令を無視して、傘下の肥前国内で勢力拡大を続ける龍造寺隆信を危険視すると討伐へと乗り出した。
ただ、西日本で勢力拡大する毛利元就に背後を突かれる危険を回避するため、重臣の臼杵鑑速と吉弘鎮理(のちの高橋紹運)らを牽制として残すことにした。
龍造寺討伐
1569年(元亀元年)3月
大友宗麟は、重臣・戸次鑑蓮(のちの立花道雪)と共に3万の軍勢で肥前・佐嘉城を目指し出陣。
肥前国に入った大友軍は、龍造寺隆信の元家臣・八戸宗晹と合流すると先導役を命じて進軍を続けた。
肥前国内の龍造寺側だった国人たちは、龍造寺隆信に援軍を要請するも全く応答がなかったため、次々と大友側へ従属していった。
一方、龍造寺隆信は毛利元就に背後を突くように援軍を要請し、3千の兵を率いて佐嘉城内で籠城戦に備えた。
大軍で佐嘉城を包囲した大友宗麟は、城の北側に着陣していた臼杵鑑速に城攻めを行うように命じる。
しかし、龍造寺軍の士気は高く、予想以上の激しい抵抗で苦戦を強いられた。
その後、城を包囲するも大きな戦はなく、周囲で小競り合いが繰り返される程度だった。
大友宗麟が率いる3万の大軍が肥前に向かっていることを知った毛利元就は、手薄となった筑前に侵攻すると立花山城を包囲した。
1569年(元亀元年)4月17日
毛利元就の侵攻で背後を突かれた大友宗麟は、肥後国・隈本城主の城親冬の仲介で龍造寺隆信と一旦和睦すると、急ぎ筑前の立花山城を目指した。
この和睦は、大友宗麟からの申し入れにも関わらず、圧倒的な兵力差により龍造寺隆信の重臣・納言信景の嫡男・秀島家綱を人質として差し出すという一方的な条件だった。
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後日、人質の秀島家綱が大友家から脱出して肥前・佐嘉城へ帰国するという事件が勃発した。
これは、龍造寺側の一方的な和睦破棄といえるものだった。
激怒した大友宗麟は、前回以上の大軍を率いて龍造寺討伐へと乗り出した。
完全包囲
佐嘉城近くに着陣した大友軍は、城近くの高良山に臼杵鑑速、東方向の境原に吉弘鎮理、北方面の川上に戸次鑑蓮を配置し、南東の寺井、早津江には船を使って志賀氏、田北氏、田原氏を配置。
この時の大友軍は、進軍途中に参陣した軍勢を含めると6万余りとなっており、佐嘉城の周囲を幾重にも取り囲んでいた。
1570年(元亀2年)5月
筑後の国人・田尻親種の軍勢が佐嘉城の東方向から攻め込んだが、迎え撃つ・龍造寺の軍勢によって深手を負わされてしまう。
6月
今度は、龍造寺の兵が城を出ると、北方面の長瀬で肥前の国人・神代長良らの軍勢と交戦。
しかし、多数が討ち取られたため逃げるように帰城した。
7月6日
再び城を向けだした龍造寺軍は、城南の浮盃で筑後兵の船に奇襲攻撃を仕掛けると損害を与えることに成功。
7月末は、大友軍による大きな攻城戦が行われたが、迎え撃つ籠城兵によって撃破されてしまった。
8月7日
龍造寺隆信は、城内の兵を集めると鍋島信生(のちの直茂)を先鋒として、全軍で戸次鑑蓮の陣に向けて一斉攻撃を仕掛けた。
予想外の攻撃により後退を余儀なくされた戸次鑑蓮。
龍造寺隆信は、勢いに乗じて大友宗麟・本陣にも突撃しようとしたが、家臣たちからの猛反対で城へ引き返すことになった。
撤退途中、大友方の国人・神代勢や八戸勢から攻撃を受けたが、納富、安住ら家臣の奮戦によって帰城に成功した。
今山の戦い
大友宗麟は、6万余りの兵を擁しながら未だに城を落とせないことに業を煮やすと、本隊から弟・大友親貞を大将とした3千の軍勢を編成して総攻撃による落城を命じた。
8月18日
大友親貞の軍勢は今山に陣を敷くと、総攻撃の準備に入った。
一方、佐嘉城内は援軍の期待もできず、大軍相手に何処まで持つのかという不安もあり、徹底抗戦派と降伏派に意見が割れ平行線を辿っていた。
8月19日
今山に陣を敷いていた大友親貞は、翌日の勝利を確信すると、家臣に酒を振る舞って盛大な酒宴を開いた。
その頃、佐嘉城内では「翌日、大友軍が3千の大軍で総攻撃を仕掛ける。」という、間者からの至急の報せで大騒ぎとなっていた。
龍造寺隆信は、直ちに家臣を集めて評定を開くも徹底抗戦派と降伏派で怒号が飛び交い紛糾するばかりだった。
龍造寺隆信も結論を出せず悩んでいるところに「今山の陣内は、明日の勝利を確信して盛大な酒宴が開かれ、陣の警戒も緩くなっている。」という間者から新たな報せが入ってきた。
この報せに一筋の光を見出した徹底抗戦派の重臣・鍋島信生(のちの直茂)。
「今なら奇襲攻撃を仕掛けるには絶好の機会である。」と龍造寺隆信に夜襲を進言。
また、評定に居合わせていた龍造寺隆信の母・慶誾尼からの賛同もあり夜襲による奇襲作戦が決定された。
この慶誾尼だが、これまでの戦にも進言するなど、龍造寺家では大きな影響力を持っていたと言われている。
また、1854年(天正12年)の沖田畷の戦いでの龍造寺隆信が討死後、龍造寺家の政にも関与していくこととなる。
夜襲
龍造寺隆信は、鍋島信生に500余の兵を与えて夜襲隊を編成させた。
8月20日未明に城を抜け出した夜襲隊は、暗闇に紛れて包囲網を突破すると今山の陣を目指した。
今山の陣の背後に到着した夜襲隊は、鍋島信生の号令で鉄砲を一斉に撃ち込んだ。
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陣内の兵は、何が起きたのか把握できないでいた。
そこに「寝返った者がいるぞ。」「裏切り者がいたぞ。」叫びながら陣内に突撃していく鍋島信生が率いる夜襲隊。
混乱状態となった陣内は、同士討ちや武器を持たずに逃げ出す者が続出した。
大友親貞も僅かな兵を率いて逃てるところを発見され討ち取られてしまった。
この奇襲攻撃で龍造寺側の大勝利となり、大友軍は大将・大友親貞だけでなく2千人余りの兵を失うこととなった。
夜襲隊を指揮した鍋島信生は、勝利の記念に家紋を大友家の杏葉に替え、龍造寺家内で大きな影響を持つようになっていく。
戦後
今山の戦いで勝利した龍造寺隆信だったが、6万余りの大軍で佐嘉城を包囲する大友軍から見れば局地的な戦いに過ぎず、佐嘉城は大軍に包囲されたままだった。
龍造寺隆信は、これ以上の籠城は兵を疲弊させ死者が増えるだけで、家も取り潰しの選択しか残ってないという判断を下すと、9月末に筑後の田尻鑑種を仲介とし大友宗麟に和睦を申し入れた。
そして和睦の条件は、弟・龍造寺信周を人質に差し出すというものだった。
10月3日
和睦を受け入れ包囲網を解いた大友軍は、豊後への帰国の途についた。
今山の戦いで勝利を治めた龍造寺隆信だったが、肥前国を実質的に治めているのは大友家であるため、その後も表面上は従属の姿勢を取り続けていった。
(寄稿)まさざね君
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