三船山の戦い解説~房総半島で里見氏が北条氏に勝利した三船山合戦

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三船山合戦までの経緯

三船山合戦(みふねやまかっせん)は、戦国時代の1567年8月23日に上総国君津郡三船台にて、里見義弘と北条氏政が戦った合戦です。
鎌倉入りを目指していた小弓公方・足利義明は、里見義堯・真里谷信応らと国府台城に入ると、北条氏綱北条氏康・北条幻庵(北条長綱)らは江戸城に入り対峙しました。
1538年、北条勢は、松戸城ほ経由して相模台に入り、国府台城付近にて第一次国府台合戦となりました。
足利義明が討死して北条氏が勝利すると、上総を追われていた真里谷信隆を椎津城にて復帰させます。
この混乱に乗じて里見義堯は真里谷氏の久留里城大多喜城などを占領し、房総半島にて勢力を拡大させました。




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相模国と安房国とは東京湾で遮られていますが、小舟を出せば3時間~4時間ほどで渡れたため意外と遠くありません。(ただし大軍を派遣するには陸路が適切)
そんなこんなで、引き続き里見氏と北条氏は、佐貫城を奪い合うなど対立が続いておりましたが、1563年、江戸城の太田康資が上杉謙信への寝返りに失敗して武蔵・岩付城で当時上杉氏側だった太田資正の元に逃れます。
これを受けて上杉謙信は、里見氏に支援を要請したため、1563年、里見義堯・里見義弘らは国府台城まで進出しました。
しかし、北条氏康・北条綱成らの反撃を受けて、里見勢の筆頭重臣・正木信茂が討死するなど大敗を喫しました。
勢いに乗った北条勢は、上総にまで進出して、土岐為頼や正木時忠を服属させています。

三船山の戦い

1566年頃から北条氏は、里見義弘の居城である佐貫城を攻略するため、標高139mの三船山に砦を築き始めます。
そのため、1567年8月、里見義弘と正木憲時らは三船台の砦を攻撃するため佐貫城から出陣し、三船山の戦いとなりました。
この報を受けて、北条氏政は太田氏資らと江戸湾を渡り佐貫城へ向かい、北条氏照原胤貞らは別働隊として里見義弘の父・里見義堯の居城である久留里城の攻撃へ向かっています。
三船山の戦いでは、正木憲時が背後から攻撃して、障子谷の沼地に降りた北条勢が駆逐されると言う激戦となり、北条勢の殿(しんがり)を務めていた太田氏資が討死するなどして北条勢は相模へ引き上げました。

兵力では劣っていても勝利した里見義弘は、真里谷領などを取り戻すなど挽回し、上総・勝浦城の正木時忠が里見氏に戻るなどしていますので、北条勢にしては領土が縮小しれたと言えるでしょう。
北条氏も、武田信玄を警戒するため、上杉氏と里見氏との同盟を進めましたが、里見氏は同盟を断ったいます。




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三船山古戦場がある場所は現在の千葉県富津市障子谷となります。
北に三船山があり、南の山とに挟まれた地形になっていました。
南にある佐貫城までは歩く距離で約5km、徒歩1時間ほどの地勢です。

現在、三船山(三舟山、三舟山陣跡)にはハイキングコース(三舟山アメニティロード)も整備されているようでして、その途中ではNHK大河ドラマ「八重の桜」(尚之助との旅)での撮影も行われたロケ地にもなっている模様です。

三船山合戦があった場所などは、当方のオリジナル関東地図にてポイントしております。

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