九州での関ヶ原

太田一吉~文官派として大分の臼杵城にて籠城した西軍の将

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太田一吉(おおた-かずよし)は美濃・太田村出身の武将です。
美濃・太田家は、もともと斯波家の家臣でしたが、父・太田宗清の頃から、織田信長に仕えていました。
別名には太田政信・太田宗隆・太田政之・太田重之・太田重正・太田小源五などがあります。

太田一吉(太田飛騨守一吉)は最初、丹羽長秀に仕えており、丹羽長秀が死去したあとは豊臣秀吉に仕えました。

石田三成ら文官派として活躍し、朝鮮攻めでは目付役を務め、文禄の役では晋州城の戦いに参加。
文禄の役の際に、大友吉統が改易されると、その旧領である臼杵城6万5000石を領し、臼杵城を整備しています。

慶長の役では南原城の戦い、蔚山城の戦いにも参加し、福原長堯熊谷直盛らと共に吏僚派として豊臣政権を支えます。
しかし、加藤清正福島正則ら武断派と対立することになりました。

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1600年、関ヶ原の戦いでの際、太田一吉は、甥の太田政成を東軍に参加させ、子の太田一成は西軍に加えさせています。
そして、太田一吉自身は臼杵城に立て籠もりました。

しかし、中津城にいた黒田官兵衛(黒田如水)と岡城中川秀成ら東軍から臼杵城は攻撃を受け、降伏しています。

ただし、このとき、太田一吉は、自分よりも小身の中川秀成に対しては降伏を拒み、中川秀成とは徹底交戦し、10月3日、佐賀関の戦いとなりました。
中川勢は、家老・中川平右衛門、田原親賢、柴山重祐らが討死するなど、230名が戦死しています。

その後も、中川秀成からの降伏勧告には「黒田如水(黒田官兵衛)であれば城を開け渡す」と、かねてから親交があった黒田官兵衛(黒田如水)には、降伏する意思を表明。
この時、黒田官兵衛は富来城を攻略中であったため、東軍に属していた太田政成を名代として臼杵城に派遣します。
すると、太田一吉はあっさりと城を明け渡しました。

黒田官兵衛の尽力で知行没収にとどまった太田一吉は、浪人すると隠棲していた京都にて1617年に死去しています。

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