早川長政(はやかわ-ながまさ)は、早川幸憲の子として誕生しました。
この早川家は、甲斐源氏・第5代の武田信光の子である早川信平(早川八郎信平)から続く家柄とされます。
経緯は不明ですが、早川長政(早川長敏、早川主馬首)は豊臣秀吉の馬廻衆となり、小牧・長久手の戦い、四国攻めなどでも活躍しました。
1586年、京都・方広寺大仏造営では作事奉行として名が見られ、聚楽第行幸では関白の行列の、前駆左の列にて供奉を務めあげています。
1587年の九州攻めでは、生駒親正とともに箱崎に営舎を造営するなどし、秋月種実が降伏したあと益富城に入ると城番を務めました。
1590年、小田原攻めでは兵200を率いて参陣し、7月17日には片桐且元と共に鎌倉・武蔵小机の民衆らに、鶴岡八幡宮の修復のために茅葺きの資材調達と、人足の動員を命じています。
また、7月23日には鎌倉の寺社領の安堵について徳川家康の家臣である高力清長・成瀬国次に指示するなど、奉行としての活躍が目立ちます。
1591年には、増田長盛らとともに近江を検地しました。
文禄の役では高麗舟奉行となり、慶長の役では目付として従軍しています。
1593年、豊後の大友吉統が改易されると、太閤検地により41万石は太閤蔵入地(豊臣の直轄地)となります。
この時、1593年閏9月に早川長政は大分郡の蔵入地代官として豊後に赴任しました。
のち、1594年に、その大分郡にて1万3000石の大名として取り立てられ、大友氏館(大友館)が本拠として使われたようです。
また4万7000石の太閤蔵入地の管理も任され、伏見城の普請にも参加しました。
1596年閏7月12日、慶長豊後地震が発生すると、別府湾の沖ノ浜(瓜生島)が津波で水没するなど甚大な震災を経験したとされます。
そして、1597年、再び朝鮮に渡って戦いました。
しかし、蔚山城の戦いでの籠城時の援軍としての行動に落ち度があったと指摘され、早川長政(早川長敏)は所領没収・改易となり、杵築城(木付城)にて謹慎となります。
そして、府内領には石田三成の妹婿・福原長堯(福原直高)が加増される形で12万石で入りますが、大友氏館(大友館)は使用せず、現在の府内城(大分城)を築城開始しています。
しかし、石田三成が佐和山城へ蟄居となると、福原長堯(福原直高)も徳川家康から、責めを負わされます。
これは、慶長の役で軍監として赴任していた際に、小早川秀秋、黒田長政、早川長政などが軍令違反したと不公平な報告をしたことや、府内城築城に慶長豊後地震後で苦しんでいる領民に過大な賦役を課したと言う罪をきせられ、福原長堯(福原直高)は府内領を没収され、臼杵城のみとなりました。
それと引き換え、早川長政(早川長敏)が謹慎している理由であった、朝鮮での働きでは落ち度がなかったとされ、1599年閏3月19日に早川長政が再び府内城主2万石で復帰しています。
しかし、1600年、関ヶ原の戦いで早川長政は西軍・石田三成に協力し、7月中旬には大坂・淡路町橋を守備し、その後、細川幽斎かせ守備している田辺城の戦いに参加し、日田領主・毛利高政と共に安久口に布陣しています。
留守にしていた豊後では、府内城の留守を守る早川内右衛門が、東軍に味方した杵築城主・細川忠興の攻撃を受けて降伏し開城しました。
そして、早川長政は所領没収・改易となると浪人します。
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やがて、大阪城の豊臣秀吉の招へいを受けると、大坂冬の陣では真田信繁の寄騎として戦いました。
最終決戦となった1615年5月7日には、天王寺口に布陣したのを最後に、早川長政(早川長敏)の消息は不明となっています。
子孫は所縁のある仙台藩・伊達政宗のもとに仕えたとも伝わっています。
なお、早川長政の子である早川九右衛門(早川源蔵)は、府内城(大分城)で降伏した際の縁で、細川忠興の家臣となりました。
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