田辺城の戦い 細川幽斎の器量にて負け戦を勝ち戦に

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田辺城の戦い(たなべじょうのたたかい)は、関ケ原の戦いの前哨戦のひとつで、慶長5年7月19日(1600年8月27日) から9月6日(10月12日)にかけて約2ヶ月間、丹後・田辺城での籠城戦となりました。
守るのは丹後の大名・細川忠興に家督を譲っていた細川幽斎であり、東軍となります。
大坂城に入った石田三成に従って攻める西軍は、福知山城主・小野木重次を総大将にした、亀岡城主・前田茂勝、織田信包、小出吉政、杉原長房、谷衛友、藤掛永勝、赤松広秀、川勝秀氏、早川長政、長谷川宗仁、山名主殿頭、竹中重利中川秀成毛利高政ら、丹波と但馬の諸大名ら15000でした。




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このとき、細川家当主の細川忠興は兵を率いて、6月12日に伏見城を発った徳川家康に従い、会津征伐に出ていたため留守でした。
細川幽斎は、7月17日まで宮津城にいました。
しかし、細川家を頼っていた三刀谷孝和(三刀谷四兵衛孝和)は、安国寺恵瓊から命を受け、西軍の先手となって一族130名を率いて、田辺城下にある細川家の家臣・佐方元昌(佐方吉左衛門元昌)の屋敷宅に入ったとの情報が届いたとされます。
この不穏な動きに対して、すぐに早舟を出して、海から田辺城に戻りました。
ただし、三刀谷孝和(みとや-こうわ)は、亡き父が徳川家康に味方するようにと遺言していたことや、細川幽斎との交誼を重んじ、一族で田辺城に入り殉ずる道を選んでいたのです。
こうして、三刀谷孝和も合流し、残存の細川勢も田辺城に集めますが、国元に残っていたのは、細川忠興の弟・細川幸隆、父の細川幽斎、従兄弟の三淵光行ら500に過ぎなかったと言います。
領内各地の支城には、弾薬・武具・兵糧をすべて田辺城に運ぶよう指示し、桂林寺・瑞光寺などの僧兵、農民町人に至るまで籠城に加わりました。
そのため、細川幽斎の正室・沼田麝香(光寿院)も、女性でありながら甲冑を着て合戦に備えたと言います。
下記は田辺城の天守台になります。

田辺城の天守台

7月17日には、大坂城近くの玉造にある細川屋敷にいた、細川ガラシャ(細川忠興の正室)が、西軍に囲まれて人質になるのを拒み、死を選びました。

田辺城への攻撃は7月19日から始まったようで、10日もすると落城寸前となりました。

田辺城の戦い

その間、徳川家康は石田三成挙兵の知らせを受けて、7月25日、東軍は下野・小山城にて「小山評定」を行い、江戸へと転進しています。
と言う事で、この時系列でもわかるように、田辺城での合戦は、7月18日からの伏見城の戦いと並行して行われています。
大津城の戦いに至っては、もっとあとの9月7日からです。

しかし、田辺城は援軍も期待できず圧倒的に劣勢でしたが、50日間の籠城に耐えました。
これは、西軍の武将の中には、文化人でもある細川幽斎(細川藤孝)を師匠と慕っている武将も多く、積極的な攻撃をしなかったとされます。
一説には、鉄砲の弾を込めずに発砲する「空鉄炮」ばかりで、形だけ攻撃したともされます。
細川幽斎が三条西実枝から歌道の奥義を伝える「古今伝授」を相伝(所有)しており、これが戦火で失われることも懸念していた可能性もあります。

そのため、合戦は膠着状態となり、細川幽斎の弟子のひとりでもある八条宮智仁親王やその兄・後陽成天皇は、細川幽斎に降伏するよう促しています。
しかし、細川幽斎は徹底抗戦すると回答したため、後陽成天皇は大納言・三条西実条、中納言・中院通勝、中将・烏丸光広を「勅使」として田辺城に派遣したため、天皇からの勅命と言う事で両軍は講和しました。
細川幽斎はこれに従い、9月13日になって田辺城を明け渡しました。

田辺城

前代未聞の「勅命開城」とは言え、細川幽斎の降伏条件はスゴイです。

田辺城は西軍の手には渡さず、石田三成が派遣していた前田玄以の養子・前田茂勝に明け渡すことを西軍に飲ませています。
しかも、田辺城を接取したあと、軍事的には使用しないことを誓約させています。
また、細川幽斎は前田茂勝の客人として、前田茂勝の居城である丹波・亀山城にて世話になると言う内容でした。

石田三成も手を焼いており、朝廷まで口を挟んできたことから、このような条件を受け入れたものと推測されます。

そして、9月18日の夜、前田茂勝は細川幽斎の身柄を丹波・亀山城に移し、9月19日に到着しました。

ただし、この頃、徳川家康は大垣城の付近まで進出しており、9月14日の夜に石田三成は大垣城を出て関ケ原に布陣します。
それを追うかのように、東軍も動いたため、9月15日に関ケ原の戦い(本戦)となりました。
そのため、田辺城を包囲していた15000の西軍は釘付けされ、関ケ原に間に合わないと言う事態になった訳です。
大津城にも毛利元康を大将にした立花宗茂小早川秀包、筑紫広門ら15000の西軍がいましたので、単純計算しても、西軍は3万が関ケ原に間に合わなかったと言う事が言えます。




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ほどなく、妻・細川ガラシャを失った細川忠興の軍勢が細川幽斎に合流すると、福知山城に撤退していた小野木重勝を攻撃します。
そして、石田三成の家老・島清興の親族にあたる小野木重勝を自刃させました。

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コメント(2件)

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  • […] 1600年6月、関ヶ原の戦いの前となる頃、細川忠興は徳川家康の会津攻めに参加する為、細川家の軍勢を率いて関東に出向いたが、その際、細川幽斎は三男・細川幸隆と共に約500で田辺城(舞鶴城)を守備した。 7月に石田三成が挙兵すると、大阪の大名妻子を人質に取ろうとし、拒んだ細川ガラシャは屋敷に火を放ち自害。 田辺城には小野木重次(福知山城主)・前田茂勝・織田信包・小出吉政・杉原長房・谷衛友・藤掛永勝・川勝秀氏・早川長政・長谷川宗仁・赤松左兵衛佐・山名主殿頭、他にも家臣だけを派遣した武将としては岡城主・中川秀成、豊後・高田城主である竹中重利らの手勢も含まれる。 このように西軍15000人の大軍に包囲され田辺城の戦いとなったが、正室・沼田麝香も具足をつけて戦うなど、細川幽斎が指揮する籠城勢は粘り強く籠城戦を継続。 攻囲軍の中にすた細川幽斎の歌道の弟子である八条宮智仁親王は、7月と8月の2度にわたって降伏勧告の使者として赴いたが、細川幽斎は会わずに2カ月間の籠城を継けた。 しかし、細川幽斎の討死と古今伝授の断絶を恐れた八条宮智仁親王は、ついに兄・後陽成天皇に奏請し、細川幽斎の歌道の弟子である大納言三条西実条と中納言中院通勝、中将烏丸光広を勅使として田辺城に送り、関ヶ原の戦いの2日前の9月13日に勅命により講和となった。 古今伝授の奥義を収めた筥(はこ)を戦火に消失させないように宮中に送り、籠城戦を戦った話は名高い。 […]

     

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