遠山友勝と遠山友忠~遠山友政は関ケ原の戦いで活躍し苗木城に復帰

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遠山友勝(とおやま-ともかつ)も生没年は不詳ですが、遠山右衛門佐友勝は、遠山友忠の父ともされます。
遠山友勝の父も良くわかっておらず、遠山左近某、または遠山景友ともされ、もちろん母は不詳です。
一説によると、京の三淵大和守の子で、養子として遠山友勝は飯羽間遠山家に入ったともされています。

いずれにせよ飯羽間遠山氏であり、遠山七頭(遠山三頭)のひとつである遠山一族でした。

遠山友勝は飯羽間城主でしたが、織田信長に属しており、1573年5月に苗木城主・遠山左近(遠山直廉)の病死すると、織田信長の命にて苗木城主となりました。
そのため、飯羽間城(飯場城)は、子の遠山友忠に与えました。




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遠山氏の宗家である岩村城主・遠山景任が1572年8月14日に死去したあと、織田信長は岐阜城の河尻秀隆や織田信広を岩村城に送って占領します。
そして、織田信長の5男・御坊丸(織田勝長)を、亡くなった遠山景任の養嗣子として継がせて、叔母。おつやの方を後見人とし、岩村城を織田家の支配下としました。

そのため、武田家の飯田城主・秋山虎繁秋山信友)が侵攻し、岩村城を攻略されます。
これに対抗するべく、1572年12月28日、上村の戦いでは明知遠山氏の明知城主・遠山景行を大将に結束して、秋山虎繁(秋山信友)に挑みますが、遠山氏は敗北を喫しました。

なお、遠山友勝の没年は不明ですが、1572年~1573年頃には没したと考えられるため、上村合戦が関与している可能性も高いと感じます。

あとを継いだのは、嫡男・遠山友忠です。

遠山友忠(とおやま-ともただ)の正室は織田信長の姪(名前不詳)です。

飯羽間城(飯場城)を長男・遠山友信(とおやま-とものぶ)に任せると、遠山友忠は明照城(あてらじょう)に入っていましたが、父・遠山友勝が没すると、明照城(阿手羅城・阿寺城)を次男・遠山友重(とおやま-ともしげ)に与え、3男の遠山友政(1556年生まれ)と共に苗木城に入りました。
苗木では領主が頻繁に変わったこともあり、国人一揆が発生しましたが、遠山友忠は鎮圧しています。

飯羽間城(飯場城)

1573年、織田信長が岩村城奪還の兵を挙げた際に、遠山友忠は織田家に味方しますが、失敗しています。

1574年、武田勝頼が15000を率いて東美濃に侵攻すると、苗木城をはじめ、遠山氏の諸城は攻略され、阿照城は木曾義昌に攻撃されました。
木曾家の重臣・三尾五郎右衛門、三尾将監の父子を負傷させますが、次男・遠山友重は力尽きて自刃又は討死しました。
遠山友重は19歳だったとされ、阿照城が落城したことで明照遠山氏は消滅しました。

この時、明知城では遠山景行(遠山友治)がなんとか持ちこたえてる状態で、織田信長は3万にて救援部隊を送ります。
しかし、明知城の中で謀反がおこります。
飯羽間右衛門尉なる武将が謀反を起こしたと史料にありますが、このこの飯羽間右衛門尉と、遠山右衛門佐友信は状況や名前が似ていることからも、同一人物だとも考えられます。
別の史料でも、遠山友忠の長男・遠山友信は、織田家への謀反の罪で、1574年3月、織田信長により殺害されたとあります。(諸説あります)
以降、父・遠山友忠と同じく右衛門佐を称していた長男・遠山友信の動向は不明です。

その後、東美濃は織田信忠の与力・河尻秀隆の指揮下に入ります。
延友信光、小里光明だけでなく、遠山友忠や遠山利景も従った模様です。

天正3年(1575年)に武田勝頼が、奥平信昌長篠城を攻めて、長篠の戦いで大敗すると、織田信忠は岩村城を攻撃しました。

岩村城

この戦いで、武田に協力していた遠山七頭は潔く自害して果て、遠山一族は、織田側についた苗木遠山氏と明知遠山氏のみとなります。
岩村城の秋山信友は捕らえられ、岐阜城に連れていかけると長良川にて処刑されました。

天正10年(1582年)、織田信長の甲斐攻めが始まりますが、木曾義昌の調略に成功したと、織田信忠に取り次いだのは遠山友忠とされています。
そして、信濃への侵攻では木曾勢と共に、苗木遠山氏が先鋒を務めました。
遠山友忠・遠山友政の親子は、鳥居峠の戦いで一番槍の功績となり、織田信長より感状を受けています。

しかし、1582年6月に本能寺の変で織田信長と織田信忠が横死します。
そして、遠山友忠は、遠山宗家の本領だった岩村城を奪還すべく、木曽義昌と共謀して、海津城から帰還する途上の森長可森蘭丸の兄)を捕らえようとしますが、失敗しています。

天正11年(1583年)、羽柴秀吉織田信孝が対立すると、羽柴秀吉から美濃・金山城主の森長可に協力するよう要請されますが、遠山友忠は拒否したとされます。
その一方で、3男の遠山友政(とおやま-ともまさ)は、羽柴秀吉の使者を務めた可能性があります。(羽柴家との交渉をしたと言うことか?)

森長可は幸田孫右衛門に命じて苗木城を攻撃しましたが、遠山友忠・遠山友政は一度は撃退に成功しました。
しかし、諦めない森長可は、大塚次右衛門・林新右衛門を派遣すると、苗木遠山氏は敗れました。
苗木城に戻った遠山友忠・遠山友政は、一族・譜代の家臣らと共に城を出て、浜松城の徳川家康を頼ります。
※このとき、飯田に逃亡して、遠山友忠は死去したともあります。

その後、遠山友忠は徳川家臣・菅沼定利が預かりましたが、死去したと言います。(没年不明)

なお、2人の兄が既にいなかったことから、3男・遠山友政が家督を継ぎました。
ちなみに、正室は美濃・高山城主である平井頼母(平井七郎右衛門)の娘です。

1590年の小田原攻めのあとには、榊原康政(または井伊直政)の家臣として、上野・館林城下に移っています。
1600年、関ケ原の戦いの際、徳川家康の命を受けて、遠山友政は遠山利景、小里光親(小里光明の子)らと、石田三成に味方した苗木城の河尻秀長、岩村城の田丸直昌、犬地城主の遠藤胤、明知城などの攻略を行いました。

河尻秀長は伏見城の戦いなどに参じていたため、苗木城はほとんど敵兵がおらず、遠山友政は中津川・駒場に放火し、領民を味方につけて苗木城を攻撃し、奪還しました。
その功績により、遠山友政は本領復帰を果たして、恵那・賀茂郡に10500石を知行し苗木城に戻っています。
1万石以上の回復は、遠山氏の中でも最大です。

慶長19年(1614年)、大坂冬の陣での際に、遠山友政は伊勢・桑名城を守備し、大坂夏の陣では、松平忠明の舞台に所属して、首級2つの武功を挙げました。

元和五年(1619年)12月19日に、遠山友政は苗木城にて死去。享年65歳。

家督は、嫡男・遠山秀友が継いでいます。
苗木藩は最小の城持ちの藩と呼ばれ、財政は厳しかったようですが、譜代格となり幕末まで続きました。

苗木遠山氏の墓所は中津川市苗木の雲林寺ですが、明治初期の廃仏毀釈で廃寺となっています。

遠山新九郎(とおやま-しんくろう)と言う武将もおり、生没年不詳ですが、織田家の馬廻と考えられます。
織田信長の小姓・万見重元が、有岡城の戦いにて討死すると、翌年の1579年1月23日に、安土城の馬廻・小姓宅の屋敷替えがあり、遠山新九郎は旧高橋虎松の屋敷を与えられたと安土日記にあります。
天正10年5月29日、織田信長が最後に上洛した際には、安土城・本丸の留守衆のひとりとして遠山新九郎の名が見られますが、どの遠山氏の出自かは不明です。




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飯羽間城(飯場城)

飯羽間城(飯場城)(いいばまじょう)は、平山城で、梯郭式と連郭式の混合縄張です。

1574年に武田勝頼が苗木城、串原城などの遠山18城は次々に落とした際、最後の残った遠山氏の城は飯羽間城だけでした。
この飯羽間城戦いは、膠着状態となり長引いたため、馬場信春内藤昌豊は甲斐に戻ろうと武田勝頼に進言したとあります。
しかし、武田家の浪人衆・名和無理介、井伊弥四右衛門、五味与三兵衛などが、自分たち浪人衆に飯羽間城を攻めさせて欲しいと願い出ました。
これに対して、旗本・近習衆と、外様・近習衆らは、飯羽間城をこのまま残しておくと、織田勢の情報拠点になるのではと主張して、撤退しようと言う家老衆らを批判します。
また、長坂光堅や跡部勝資らは浪人衆の意見を尊重すると、家来や他国への聞こえが悪いとしたため、結局、武田主力にて飯羽間城の城戸を打ち破り、陥落させました。
織田家から援軍として派遣されていた武将14騎と、城兵350人を残らず討ち取り、飯羽間城の城将を生け捕りにして土蔵で捕虜にしたとあります。

現地を訪れますと、飯羽間城はそんなに大きくは見えませんでしたので、意外でしたが、岩村城の移築門が、飯羽間城近くの徳祥寺の山門になっていますので、セットでどうぞ。

徳祥寺の山門

飯羽間城と徳祥寺がある場所は、オリジナルGoogleマップ「美濃」にてご確認を賜りますと幸いです。

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