箭先地蔵堂・矢尻の池(井)~不破の関にある壬申の乱の史跡

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関ヶ原と聞くと、1600年にあった天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」が行われた場所として教科書にも出て来ますが、この関ヶ原(不破の関)は、古来より東西に中山道が貫き、西北に北国街道、南にし伊勢街道が通じる「交通の要所」でした。
現在でも、東海道本線だけでなく、東海道新幹線や名神高速が貫く「要所」です。

そんな地勢でしたので、皇位継承をめぐって皇族と豪族が2派に分れて、天下分け目の内乱となった、672年の「壬申の乱」(じんしんのらん)の際にも、この関ヶ原にて大変大きな合戦が繰り広げられました。

その壬申の乱にまつわる史跡は、関ヶ原の不破関跡付近を中心に点在します。

壬申の乱があった地であることは理解していたのですが、今回、私が関ヶ原を訪問した際には、戦国時代関連の史跡のみを周るつもりでしたので、特に壬申の乱関連はパスすることにしていました。




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しかし、松尾山を降りて、藤下の名神と新幹線の下をくぐって、集落の狭い道を抜けて中山道に出て、藤古川橋を渡った急坂の上に行きますと、目前に「大谷吉継墓」と言う文字が刻まれている立派な石標が目に入って来ました。

「大谷吉継墓」とある大きな石碑を見つけては、確かめるしかありません。
「ここにも大谷吉継に関連する史跡があるのか?」と、車を安全な場所に止めて、石標を見てみました。

すると、どうも、大谷吉継の墓は、こっちで、あとどのくらいの距離であると言う案内石標であることに気がつきました。
このあと、関ヶ原の各地を周った際には、同様に案内している立派な石標をいくつか見る事になりました。

余りにも立派で大き目な石碑でしたので、運転しながらパッとみた際には、史跡そのものを示すものだと勘違いしてしまいました次第です。
しかし、一瞬見ただけでは、大谷吉継の墓だと思っても、おかしくはないのでは?と思いますが、そんな風に感じたのは、私だけでしょうか?

ともあれ、ちょっと脇をのぞいてみますと、何やら史跡のようなものがありました。
車を長い間止めては、地元の方の迷惑にもなりますので、説明版も読まず、詳しくは帰って調べる事にして、写真1枚だけ撮らせて頂いて退散しました。
と言う事で、せっかくですので、簡単ではありますがご紹介しておきたいと思います。




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箭先地蔵堂

このページトップ写真にある、石標のうしろ側に写っている社が「箭先地蔵堂」(せんさきじぞうどう)です。
なんでも、ここの中山道(旧道)の坂を「広く」するために、明治11年に開削したところ、お地蔵さまが出土したと言う事で、弘文天皇稜候補地の傍にあった地蔵さまと合祀して、ここに納めたと言う事です。

矢尻の池(井)

その箭先地蔵堂のすぐ裏の茂みには「矢尻の池(井)」(矢尻の井)があります。

矢尻の池(井)

この井戸とも池とも言える史跡は、なんでも、壬申の乱で戦った兵士らが、水を求めて矢尻(鏃)で穴を掘ったところ、水が湧いたと伝わっているそうです。
隣に新しい道ができるまでは、ずっと水を湛えていたそうです。

箭先地蔵堂・矢尻の池(井)の場所は、下記の地図ポイント地点となります。

今度、関ヶ原を訪れた際には、不破関跡など、壬申の乱関係も、是非訪れたいと考えております。

関ヶ原史跡「実用Googleマップ」~観光のお供に便利な地図