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山口宗永
山口宗永(やまぐち-むねなが)は、山口光広(山口甚介)の子として1545年に生まれました。
初めは山口宗長とも名乗り、山口甚兵衛、山口玄蕃頭宗永とも称しますが、豊臣秀吉に仕えます。
文禄2年(1593年)、朝鮮攻めの失敗から丹生島城(臼杵城)の大友義統が改易されると、山口宗永は豊後に入って太閤検地を実施していますので、計算が得意な奉行的役割であったと推測できます。
そして、1597年に、小早川隆景のあとを継いだ、豊臣秀吉の甥・小早川秀秋の補佐するため、山口宗永は小早川家の付家老となりました。
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小早川秀秋と共に慶長の役では朝鮮に渡り、特に蔚山城の戦いにて、加藤清正らが籠城した蔚山倭城を救援しています。
しかし、小早川秀秋とは折り合いが悪かったようで、1598年、小早川秀秋が筑前・名島城から越前・北ノ庄城へ転封された際に、加賀・大聖寺城にて独立大名となりました。
大聖寺城の戦い
1600年、関ヶ原の戦いで、山口宗永は石田三成の西軍に協力します。
この時、金沢城の前田利長は、徳川家康に味方して、2万の大軍にて、西軍についた小松代の丹羽長重を攻撃しようとします。
しかし、意表をついて8月1日に加賀・松山城に前田勢が入ったため、山口宗永は大聖寺城の防備を堅めました。
そして、北ノ庄城の青木一矩、小松城の丹羽長重に救援要請の使者を送りましたが、翌8月2日、前田利長が九里九郎兵衛・村井久左衛門を使者として大聖寺城に送り降伏を勧告します。
山口宗永が激高して拒否すると、前田勢は大聖寺城を総攻撃開始します。
山口宗永の嫡男・山口修弘(山口右京亮修弘)は伏兵となりますが、前田勢の先鋒・山崎長徳に発見されて敗北するも、果敢に出撃して前田勢に被害を与えましたが城内に退却します。
しかし、500の兵しかいない山口勢は鐘ヶ丸で激しく抵抗しますが籠城もむなしく、山口宗永は塀の上から降伏すると伝えました。
しかし、多くの兵を失っていた前田勢は降伏を許さずに城内に突入します。
これを受けて、8月3日の夕方に大聖寺城は陥落し、山口宗永・山口修弘の父子は自刃しました。
前田勢の先鋒・山崎長鏡の家臣である木崎長左衛門を呼び、名乗った上で「功名にせよ」と自刃して、首を打たせたと伝わります。
2人は山口父子の首は三谷川の福田橋近くに葬られ、山口玄蕃の首塚が存在します。
墓所は石川県加賀市大聖寺神明町にある全昌寺となります。
ちなみに、前田利長は、そのあと浅井畷の戦いにて丹羽長重を蹴散らしています。
関ヶ原の戦功によって、大聖寺城は前田利長の領地となり、城代として津田重久(津田遠江守重久)が置かれます。
しかし、1615年、元和の一国一城令により廃城となりました。
山口宗永の首塚がある場所は、当方のオリジナル地図でも、わかるようにしてあります。
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