小牧・長久手の戦い

長久手の戦いの「流れ」をわかりやすく解説~史跡写真と共に・・【小牧長久手の戦い】

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小牧・長久手の戦いは、織田信長の亡きあと、岐阜城主・織田信孝を滅ぼした、織田信雄が、織田家中の実権を掌握しようとしたため、三法師を擁立していた羽柴秀吉(豊臣秀吉)と対立し、徳川家康を味方につけた織田信雄が挙兵した合戦です。
池田恒興が羽柴秀吉に協力して犬山城を占拠したため、清洲城に入っていた徳川家康が約14000にて小牧山城を占領したことから始まります。
詳しくも、できる限り簡潔に長久手合戦の経緯をご紹介してみます。

1584年3月12日の亀山城の戦いから、3月13日には犬山城の戦い、3月14日は峰城の戦い、3月16日~19日は松ヶ島城の戦い、3月17日は羽黒の戦い、3月28日は小牧の戦いと序盤だけでも広範囲に渡って何度も合戦となりました。

長久手の戦い

羽柴勢は小牧山城付近に着陣して約20日間過ぎ、膠着状態となったため、4月4日に池田恒興が羽柴秀吉(豊臣秀吉)に献策しました。

その作戦は、池田恒興、森長可堀秀政、三好秀次(羽柴秀次)の4将にて、小牧山城の囲みから、徳川勢の本拠地・岡崎城を攻めよう(撹乱しよう)という「中入り」策で、移動開始したのは4月6日夜半となります。

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先頭を進んでいた池田恒興は、三河に向かう途中、徳川勢の三河の要である「岩崎城」を攻撃しました。

岩崎城の戦い

4月9日未明に、池田恒興が岩崎城近くを通過しようとしたところ、城代・丹羽氏重(丹羽氏次の弟)が守備する岩崎城が鉄砲を撃ってきたため、池田勢は岩崎城を攻撃開始したともされます。
いずれによせ、岩崎城は約3時間で陥落させました。

この時、長久手城主・加藤忠景(加藤太郎右衛門忠景)も岩崎城に入っており、200名余りの城兵とともに討死したと言います。
加藤忠景(加藤景常)は41歳、丹羽氏重は16歳でした。

岩崎城の史跡に関しては、岩崎城の戦いのページにて詳しくご紹介させて頂いております。

長久手城

織田信雄に仕えていた加藤忠景(加藤景常)は岩崎城主・丹羽氏次の姉を正室に迎えおり、また娘を丹羽氏次の継室にと嫁がせていました。

長久手城は小さな公園になっており、のちに観音堂が建立されました。

その観音堂の脇に、長久手城趾や案内板がありますが、城の遺構は全く消滅しています。

なお、別の説では、加藤忠景(加藤景常)は岩崎城では討死しておらず、のちの5月7日の加賀井城の戦いにて討死したともありますが、加賀井城の方が正しいような気もします。

このページでご紹介している長久手の史跡がある場所は、オリジナルGoogleマップにて正確にすべての場所を示していますので、ご参考にして頂けますと幸いです。

「尾張・美濃」にある戦国史跡跡オリジナル地図(Googleマップ)

長久手の戦い

楽田城にいた豊臣勢の一部が三河方面に向かったため、小牧山城の徳川家康は、榊原康政(1550)・水野忠重(800)・大須賀康高(1850)に道案内の丹羽氏次(300)を付けて、追撃させます。
更に、4月8日夜には、徳川家康の本隊も出発し、小幡城に入りました。

岩崎城の戦いが行われている頃の4月9日早朝、池田勢の後を追っていた羽柴秀次は、休息していたところを、追撃してきた徳川勢の水野忠重・丹羽氏次・大須賀康高らより後方攻撃されます。
更には榊原康政から横槍も受けました。
長久手の戦いの始まりです。

徳川勢は4500、羽柴勢は8000でしたが、不意を突かれた羽柴秀次(三好秀次、三好信吉)はこのときまだ17歳で、自分の馬も失い、木下勘解由利匡(きのしたかげゆとしさだ)の馬で脱出します。
秀次付きの田中吉政・長谷川秀一も反撃できずに撃破され、目付けだった木下祐久(木下助左衛門祐久)・木下利匡(木下勘解由利匡)など多くの木下家の家来は羽柴秀次の退却を助けて討死しました。
これら木下一族討死の塚は、現在でも荒田にあり、勘解由利匡の「塚木下勘解由塚」が、市指定史跡となっています。

桧ヶ根の戦い

後方から鉄砲の発砲音などが聞こえたため、堀秀政(掘久太郎秀政)は堀長政を偵察に向かわせました。
そして、羽柴秀次敗走の知らせが約2時間後に届きます。

これを受けて、堀秀政は、引き返して、桧ケ根(ひのきがね)の高所に陣を敷して三好勢の残兵と共に、3000にて徳川勢を待ち受けました。
下記が桧ケ根公園の真ん中付近にある掘久太郎秀政本陣地です。

大須賀康高・水野忠重・丹羽氏次・榊原康政らが桧ケ根に突入しますが、堀秀政は敵が20mまで近づいたら鉄砲を放つように命令し、尚且つ、鉄砲の弾込めの間に弓を放つように弓隊にも指示したとされます。
それでも突撃してくる徳川勢には、槍隊にて対処させました。
この堀秀政の巧みな戦術の前に、勇猛果敢で知られる三河武士・徳川勢は逆に返り討ちされ岩作城へと逃げ込みました。

桧ケ根公園は図書館もあり、その図書館の地下駐車場を拝借させて頂きました。

岩作城

岩作城跡は、現在の長久手市役所がある場所となります。
市役所の南東側の信号のところに石碑があります。

なお、桧ヶ根の戦いでの徳川の死者は約280とも500とも言われています。

色金山

そのころ、徳川家康の本隊は、小幡城から大きく迂回して、権堂山付近を過ぎて色金山(いろがねやま)に着陣したところで、羽柴秀次の敗走と、その後の堀秀政との敗戦の報告を受けました。

現在の色金山は、国指定史跡の色金山歴史公園として整備されており、立派な展望台もあります。
春には桜の花見もできそうです。

その山頂にある「床机石」(しょうぎいし)は、徳川家康が腰かけて軍議を開いたと言われています。
そうそう、各写真はパソコンでクリックしますと、拡大致します。

軍議と言っても簡単なものであったようで、すぐに徳川家康は本陣を移します。

床机石で軍議を開いた徳川家康は、岩作城に逃れていた部隊と合流し、香流川(かなれがわ)を渡りました。
現在の色金山には、長久手合戦の供養碑もあります。

そして、徳川家康は長久手の富士浦に布陣します。

御旗山

岩作城を経由して、徳川家康の本隊は富士浦にある御旗山(みはたやま)に布陣しました。

富士ヶ根の御旗山へ進出したうえで、桧ヶ根の堀秀政と、仏ヶ根の池田恒興・森長可との間を分断したのです。

この時、桧ヶ根にて一度、徳川勢を蹴散らした堀秀政は、徳川家康の馬印である金扇を見つけており、戦況が不利だと判断して、池田恒興・森長可からの援軍要請を無視して後退しました。
榊原康政らと一度戦ったあとですし、まぁ、戦上手の堀久太郎と言えども、部隊は疲弊しており、兵力減少などの理由もあったのだと存じます。

堀秀政の撤退を受けて、徳川家康は全軍をまとめて南下させ、仏ヶ根(長久手市武蔵塚の北部)に進出するのです。

現在の御旗山の山頂には富士社が鎮座しています。

御旗山は駐車場がないのですが、御旗山の北側の道路は駐車禁止ではなかったので、短時間止めさせて頂きました。

長久手の戦い

岩崎城を占拠した池田恒興・池田之助と森長可は約300の首実検をしたあと、朝食をとりながら祝宴を開いていたと言います。
そこに、三好秀次が敗戦したとの知らせが朝7時頃届いたため、部隊を徳川勢に向けて長久手へと戻しました。

池田恒興、森長可らは仏ヶ根へと移動しましたが、徳川家康が御旗山(前山)へ出て退路を断たれた為、不利な状況となります。

残された豊臣勢の池田恒興・森長可の9000は、兵力的には徳川勢も9000とほぼ互角でした。
そして、徳川家康3300、井伊直政3000、織田信雄3000と、豊臣勢の池田元助(池田之助)と池田輝政勢4000、森長可3000、後方に池田恒興勢2000とが、1584年4月9日朝10時頃に激突します。

最初は一進一退の様相で、どちらが勝つかも分からぬ接戦でした。
しかし、美濃金山城主・森長可が井伊直政隊の鉄砲を頭に受けて討死します。
武蔵塚が森長可討死の地となります。

勇猛果敢な武将で「鬼武蔵」という異名を取っていた森長可は享年27でした。

その後、豊臣勢は崩れだし、徳川勢が優勢となります。
池田恒興は、自分が進言した「三河の中入れ」でしたので必死に戦いましたが、永井直勝の槍を受けて討死。
長久手の古戦場公園の北側にある「勝入塚」が、大垣城主・池田恒興の戦死の地です。享年49。

嫡男・池田元助も安藤直次に討ち取られました。
「父は如何に」と尋ねたところ「討死」したと聞いて 急ぎ、父の陣に引き返す所を討ち取られたと言います。
古戦場公園の南側にある庄九郎塚が討死した場所です。池田元助、享年26。

戦闘の終結は午後1時頃ですので、仏ヶ根の戦いでは約2~3時間ほど戦ったと言う事になります。
次男・池田輝政は、家臣から父と兄は既に戦場を離脱したと説得されて戦場を離脱しています。
のち姫路城の天守を築く池田輝政ですが、父・兄を残して戦場から去ったことは、一生心の傷として残りました。

こうして池田恒興・森長可らの豊臣勢は潰滅し、徳川家康の大勝利に終わりました。

徳川家康は小幡城へ引きあげています。

血の池と鎧掛けの松

この長久手の戦いにおける羽柴勢(豊臣勢)の死者は約2500、織田・徳川勢は約590とされています。
例えば、1569年の三増峠の戦いでは、武田信玄が約1000、北条氏照らが2500の戦死者ですので、規模的には非常に大きな戦闘と言う事ではありませんが、
しかし、池田恒興・森長可と言った重臣を失い、一族の羽柴秀次は逃げ帰ると言う、羽柴秀吉にとっては大きな痛手となりました。

長久手の血の池公園には、かつて池があり、徳川勢の渡辺半蔵(渡辺守綱)ら武将が、刀についた血を洗ったと伝わります。

また、血の池公園の北西側には、松に鎧(甲冑)を掛けたとされる鎧掛けの松(現在の松は4代目)もあります。

なお、羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、同じ4月9日に、陽動作戦として小牧山城へ攻撃していました。
しかし、午後になって白山林の戦いでの羽柴秀次の壊滅を知り、羽柴秀吉は20000の軍勢を、竜泉寺付近まで急行させています。

ただし、本多忠勝500に妨害されたこともあり、行軍が思うように進まず、夕刻になって徳川家康が小幡城にいるとの報告を受け、翌朝に攻撃することを決しました。

徳川家康はすぐさま、小幡城に戻っていたのです。
尚且つ、徳川家康と織田信雄は夜のうちに小幡城を出ると小牧山城へと帰還したため、この報を聞きいて、羽柴秀吉はもとの楽田城へと退きました。

その後の戦況としても、織田信雄・徳川家康連合軍のほうが優勢でした。
長久手合戦から半年以上経った11月11日、羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、合戦で勝てないのであればと秘策にでます。
長島城の織田信雄を懐柔して「所領安堵」を条件に講和を結び、徳川家康が羽柴秀吉と戦う、大義名分を失わせたのです。
大義名分を失った徳川家康は、11月21日に兵を引き上げました。

首塚

長久手の岩崎城跡より東の集落には、安昌寺の雲山和尚(うんざん)が、合戦で亡くなった兵の屍を集めて「塚」を築き、手厚く葬ったと言う「首塚」 (国指定史跡)があります。

この首塚がある場所などもすべて、オリジナルGoogleマップにて明示しています。

池田恒興・池田之助・森長可の墓

長久手町の「常照寺」(じょうしょうじ)には、池田恒興、池田之助、森長可の墓があります。
常照寺の入口には「三将之墓所」と言う石碑がありました。

なぜ、ここに3将の墓(供養碑)があるのか?は、調べてもわかりませんでした。
ご存知の方がおられましたら、コメントでも頂けますと嬉しく存じます。

三将之墓がある場所は、ちょっとわかりにくいところにあります。

常照寺の本堂左手に進み、本堂の裏手から崖の脇に通じる通路があります。
その崖の下の通路の終点に小さな墓所があります。
その墓所の一番左側に池田恒興、池田之助、森長可の墓がありました。

どの墓が誰なのか?など、順番は不明です。

以上、長久手の戦いに関してでした。
当方のオリジナルGoogleマップを見ながらですと、徳川家康がどの順番で布陣したかも、よくわかるかと存じます。
また、長久手の史跡を訪れる際には、駐車場の場所など、カーナビ代わりにもなりますので、うまく使ってみて頂けますと幸いです。

このページでご紹介した史跡をクルマ・バイクで周る場合の観光所要時間は90分といったところです。

岩崎城の戦い~岩崎城主の丹羽氏次と丹羽氏重とは【小牧長久手の戦い】
小牧・長久手の戦いと池田恒興~長久手古戦場
堀秀政~かなり有能な武将なれど注目されていないのはもったいない?
森長可~武勇から「鬼武蔵」と称され槍術が得意だった武将
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豊臣秀次~豊臣一族としての役目を果たすも最後は粛清される運命に
榊原康政とは~武勇と知勇を馳せた徳川家の重臣
織田信雄~織田信長の次男のその生涯
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「尾張・美濃」にある戦国史跡跡オリジナル地図(Googleマップ)

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