西軍の関ヶ原史跡

毛利秀元とは~毛利秀元陣跡と安国寺恵瓊の陣跡~なんで南宮山の高所に陣を?

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しかし、スゴイところに陣地を構えたものです。毛利秀元は・・。
と言う事で、南宮山(なんぐうさん)にある毛利秀元の陣跡を訪問して参りました。

関ヶ原の戦いの際に、毛利秀元が陣を置いた場所は、岐阜県垂井町にある南宮大社から山登りとなります。

まずは、南宮山の長束正家が陣を構えた麓あたりから、南宮山を撮影してみました。
すんなりいかなさそうと申しましょうか、結構な構えの山で、先が思いやられます。

毛利秀元とは

南宮山の毛利秀元陣跡を詳しくご紹介する前に、毛利秀元と言う戦国武将について触れておきましょう。

毛利秀元(もうり-ひでもと)は、1579年11月日に猿掛城主・穂井田元清(毛利元清)の長男として生まれました。

西国の覇者となった吉田郡山城主・毛利元就の4男が、父の穂井田元清(毛利元清)となります。
母は妙寿院(来島城主・村上通康の娘)です。この母は、小説・村上海賊の娘にて登場する「琴姫」となります。

1585年、7歳になった毛利秀元は、嗣子がいなかった毛利本家・毛利輝元の養子となり1590年に元服しました。

1592年、14歳となると、肥前・名護屋城に向かう途中に、広島城に寄った豊臣秀吉からも、毛利家の正式な嗣子と認められました。
そして、文禄の役では、病気の毛利輝元の名代として父・穂井田元清と共に毛利勢3万の総大将となり、宇喜多秀家や伯父・小早川隆景らと活躍しています。

しかし、1595年1月、43歳の毛利輝元に初めての長男・松寿丸(毛利秀就)が誕生する事態となり、毛利秀元は世嗣を辞退して身を引きました。
そのため、毛利秀元は別家を立てる事を認められ、2月に豊臣秀吉の養女・大善院(豊臣秀長の娘)を正室に迎えました。

1597年、慶長の役でも、従兄・吉川広家らと朝鮮に渡り、加藤清正黒田長政らを助けています。
1599年、21歳のとき正式に別家を創設し、父の遺領など18万石となり、安国寺恵瓊の後見を受けました。

1600年、関ヶ原の戦いでは、安国寺恵瓊らと西軍・石田三成に協力し、大阪城に残った毛利輝元の代わりに、毛利本隊を指揮する事になります。
しかし、吉川広家や毛利家の家老・福原広俊が密かに徳川家康に通じます。
そのため、南宮山に布陣した毛利秀元ら15000は動けずに、西軍が敗戦となる要因の1つになりました。

関ヶ原から大阪城に撤退した毛利秀元は、立花宗茂と共に毛利輝元に徹底抗戦を主張しましたが、毛利家は国許に退却します。
大幅に大減封されるも、毛利家は存続し、毛利秀元は6万石にて櫛崎城主となり、支藩・長府藩の初代藩主となります。

大坂の陣では徳川勢として参戦し、のち1650年に生涯を閉じています。享年72。

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さて、いよいよ毛利秀元が布陣した南宮山に登る訳ですが、まずは南宮大社にて登山の安全を祈願します。

そして、社殿の左脇から奥へと延びる、伏見稲荷大社の千本鳥居を思わせるような参道を進みます。
この日は、小早川秀秋陣跡の松尾山にも登って来ましたので、登り始めから既に筋肉痛と言う状況ですが、頑張りました。
装備としてはもちろん、トレッキングポールなど山城攻めスタイル(軽登山用)です。
そのため、神社の中を歩いていると、自分の恰好にかなり違和感を感じます。と言うのは、まさに普段は山登りしない自分がここにいる証しです。

参道を奥まで進んだところで、左手の川を渡る「橋」がありますので、その方向へと折れます。
ここからは南宮山ハイキングコースになっています。

上記の案内が見えてくると、そこはもう「安国寺恵瓊陣跡」が目前です。
安国寺恵瓊の陣跡までは、南宮大社の無料駐車場から徒歩5分といったところでしょうか?
ただし、この付近に陣があったと言う説明のみで、特に遺構らしきものなどはありません。
先陣となる吉川広家の後方であり、第2陣として布陣したのでしょう。
毛利勝長も安国寺陣営に加わりました。

この安国寺恵瓊の陣跡から、本格的な山登りとなってきます。
下記のような野生動物対策の「柵」(フェンス)があります。
山登りになれていない私は、一瞬、ここから入れないのか?と思いましたが、良く見ると「扉」があり、手動で開けて入山できました。

そのあとは、ひたすらの「登り」と言う苦行です。
普段、不摂生な私の体には、非常に堪えます。
小早川秀秋の松尾山の時は、登っている途中で、展望が良い所があったのですが、ここ南宮山では毛利秀元の陣跡に到着するまで、展望は皆無でした。

登りではつづら折りの山道をひたすら登るような感じでして、心臓はバクバク、足もだんだん疲れてきました。
「こんな山の中に陣を置くとは最初から戦う気なかったのか?」と、毛利秀元はなんてことをしたんだと何度も思うようになり、石田三成がなぜ動かん?と思った気持ちに少しは近づけたかも知れません。

途中、石垣が現れました。
こんなの見ますと、最近は「ニヤッ」としてしまいます。

毛利秀元ら15000も、草鞋(わらじ)で、未整備の山道を、こんなして登って行ったのでしょうか?
末端の足軽兵も、いい迷惑だったと思います。

なにやら「郭」のような場所にでましたが、目的は「急いで毛利秀元陣跡にたどり着く」と言う、使番(伝令)のような気持になっているので、本陣目指して、先を急ぎます。

まだ着かないのか?、と言う事ばかり考えて登っていましたが、だいぶ上の方になってきますと、尾根に出たのか、若干、坂道は緩くなりました。
しかし、夏季に登る場合には、熱中症対策が絶対に必要ですので、ご留意願います。

大垣城付近に展開した西軍の総大将である毛利秀元が本陣を置いた南宮山は「南宮山陣城」とも呼ばれます。
下記のような小さな神社があった、ちょっと平坦な場所も「郭」として使用したのだと思います。

しかし、こんなに山歩きしたのは、神奈川県の「石投げ地蔵」を訪れる為、陣馬山などをさまよって以来、ほぼ1年振りです。

関ヶ原の戦いの3日前となる、9月12日付の石田三成が増田長盛に宛てたの書状では、毛利秀元は総大将だから松尾山に入れるべきだと提案しているようです。
しかし、吉川広家がそれを拒否したのか?、毛利秀元が移される事はありませんでした。
念の為記載しておきますと、南宮山に布陣した西軍は、石田三成らが大垣城にいた段階で、先に入っていますので、ずっとここにいたと言う事になります。

下記は土橋だと思ったら、やはり「土橋」と手作り案内がありました。
ただ、写真ではわかりにくいですね。

目的地まではもう近いようでして、色々と現れてきました。
下記は竪堀とありますが、その先は見えないので、どうしても堀切に感じてしまいます。

下記は土塁です。
道はクランクのようになっています。

そして、南宮山陣城(毛利秀元陣跡)の最大の見どころとも言える「虎口」ですが、これも言われてみないとわからないかも知れません。
1週間と言う短い期間で築いたと言う事ですが、ちょうど、カメラのフラッシュ用バッテリーが切れてしまいまして、夕方と言う事もあり「暗く」写ってしまいました。

南宮山の展望地が「南宮山陣城」となります。
山頂からは東に伸びる尾根筋のピークになっており、毛利秀元が南宮山に布陣した際に、尾根筋を堀切で断って、主郭と北側には帯曲輪を設け、土塁も築くなど、防御体制をある程度整えたようです。
展望地(毛利秀元陣跡)の標高は実測で401mでした。
駐車場からの比高(高低差)は、なんと354mもある険しい砦・山城です。
ちなみに、南宮山の山頂はここではなく、更に登る必要がありますが、ここから先の道は余り整備されていないとの事です。

確かに、すごく展望が良く、大垣城の方向も良く見えたはずです。
仮に、眼下で味方が危機になったのが良く見えたとしても、この山の上から援軍を繰り出すには、麓まで降りるだけで約1時間掛かる訳ですよ。

となると、朝鮮の役では毛利の総大将として渡って戦った毛利秀元と言えども、関ヶ原のとき、まだ若干22歳であり、実質的な作戦指揮は家老らの助言が大きかったはずです。
毛利秀元を補佐するように命じられていた吉川広家の進言もあり「良く見えるところへ」と、戦う気があった本人の意思とは別に、色々と言いくめられて、こんな山の奥に本陣を置く事になったのかも知れません。

ただし、石田三成らが戦った関ヶ原の方向は、山の反対側となりますので、ここからは見渡せません。
これは、南宮山に布陣したのは、1600年9月7日と、石田三成らが関ヶ原に布陣し戦闘となった9月15日よりも約1週間前の事だったからです。
すなわち、大垣城にいた石田三成らを、徳川勢が「包囲」することを想定して、兵糧攻めとなった場合に活路を見出すため、ここ南宮山に28000もの大軍が配置されたものと推測致します。

そのような意味では、こんな高い所に毛利秀元が本陣を築いても、当初の計画では良かったのかな?と、思えてきました。
しかし、関ヶ原の戦いとなると、ここに総勢28000が布陣した意味は薄れてしまった訳ですので、戦略的には良くないです。

さて、帰り道は、カメラもレンズキャップをして、ひたすら下山しましたのは、言うまでもありません。
足のふくらはぎが筋肉痛になり、結果的にこの日から帰ってからもと、4日連続で温泉に浸かる事になりました。

南宮山への行き方

毛利秀元陣跡と安国寺恵瓊陣跡がある南宮山へは、まず「南宮大社」を目指します。
JR東海道本線の垂井駅から歩きますと、徒歩約20分となります。
南宮大社には大きな無料駐車場がありますので、正月の初詣時期でなければ、普段は止められると思います。
その駐車場から歩くと安国寺恵瓊陣跡まで片道10分、毛利秀元陣跡の展望地までは駐車場から私の足で80分掛かりました。標準だと90分程度のようです。
なので、山へ登って降りるのには、私の場合で往復100分、標準だと120分くらいと言う観光所要時間となります。
まだ若いうちに登っておくことをお勧め致します。
ハイキングコース上にトイレや水場はありませんので、駐車場で済ませておきましょう。

南宮大社の駐車場は下記の地図ポイント地点となります。

登られた方、大変お疲れ様でした。
これから計画を立てる方、お気をつけてお登りください。
私のこのような山城攻め装備は、下記にてご紹介もさせて頂いております。

安国寺恵瓊~毛利家の交渉人から豊臣秀吉傘下の大名になった僧
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