中馬重方(中馬大蔵)とは~島津義弘に信頼された猛将も関ケ原に参戦

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戦国時代で名高い名将として、日本国内のみならず朝鮮出兵で明軍を撃破して鬼石曼子(グイシーマンズ、鬼島津)として畏れられた島津義弘がいますが、一人の寵臣に幾度も危機を救われています。その寵臣こそ、ぼっけもん(鹿児島弁で勇者、豪傑の意味)と呼ばれた中馬重方(ちゅうまん-しげかた)でした。

中馬重方は、永禄9年(1566年)に、中馬大蔵の息子として生を享けました。
中馬重方じたいが中馬大蔵と同一人物(または親子で同じ名前を称した)ともされます。
中馬家は、平安時代の武将である平良文の末裔に当たり、日置郡市来郷(今の鹿児島県いちき串木野市)に住んでいました。
父・大蔵を天正6年(1578年)11月11日に戦で亡くした重方は、その2年後に肥後国矢崎城の戦いで初陣を飾っています。

彼は大柄な体躯と、それから繰り出される怪力で敵を倒す猛者ではありましたが、その腕力を活かして強弓を引くなど弓術にも秀でていました。
しかし、そんな豪傑にも短所がありました。
むしろ、欠点だらけの乱暴者と言われてもおかしくない存在でもあったのです。

重方の性格を示す逸話として、義弘が見染めて側室にと望んだ女性を口説いて自分の妻にしたり、米が無くて妻子が困っていれば義弘の名を騙って農民が運んでいる年貢米を強奪してしまうなど、粗暴な行動が目立ちます。
武家社会においては主命や国法に背くのは当然大罪で、増してや下級の武士である重方の行為は、処刑されてもおかしくないものでした。




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しかし、義弘は何かにつけて彼を庇い、その問題行動を許します。そればかりか、重方が上司である比木島国貞との間に問題を起こして蟄居を命じられた時には、義弘が生活の面倒を見ているのです。
それについて『薩摩旧伝集』は重方を評して「惟新公別して御秘蔵の人」すなわち、義弘(惟新公は義弘の別名)のお気に入りだったと記しています。知略に秀でた義弘ですが、勇猛を尊ぶ薩摩の武将らしく、重方の豪傑ぶりを評価していたのでしょう。

事実、重方は文禄の役が起こると彼は処罰を解かれ、義弘の指揮下でその武勇を遺憾なく発揮しました。
慶長の役でも勇敢さを見せた重方を賞賛した義弘は、彼が『与八郎』と名乗っていた通称を、亡父と同じ『大蔵』に変えるように命じるなど、前にも増して寵愛を深めています。

普通ならば主君の覚えがめでたい武士はその地位に安住しがちですが、重方の“ぼっけもん”ぶりは留まるところを知りませんでした。
慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起きた時、島津義弘の配下が200人ほどで西軍に加勢したと聞いた重方は、農作業を放り出しただけでなく、輸送されていた他人の具足を奪い取って参戦しました。
寵愛してくれた義弘の恩義に報いようと焦る彼の心境を表すエピソードと言えます。

しかし、中馬重方が騒動まで起こして参戦した関ヶ原でしたが、西軍は惨敗して島津軍は窮地に立たされます。“捨てかまり”すなわち島津の退き口で敵中を突破して薩摩への退却を余儀なくされた将兵には死傷者が相次ぎますが、重方は生き伸びて義弘の輿を担いでひた走りました。

その道中で彼は主家の馬印を捨てたばかりか、側近が義弘のために献じた馬肉を「輿を担いでいる私を優先させて欲しい」と要求して平らげる騒動を起こします。
武将の所在を示す馬印があれば敵に見つかりますし、輿を担ぐ者が食糧を優先的に食べるのも道理ではありますが、そうした合理的な価値観は身分制度の前では非常識な悪徳でしかありません。

それでも、義弘は重方を叱りすらしなかったばかりか、薩摩に帰ってから彼に50石の加増をして報います。普段はさほどの働きがあるわけでもないばかりか、問題を起こすような重方でも、忠誠心と勇気を評価して巧みに使いこなすのが島津義弘の人材活用術でした。




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薩摩に帰還した重方は、関ヶ原の生き残りとして若い武士に話を頼まれることもありました。彼は語ろうとした際に涙が溢れて、話が進まなくなります。
しかし、その様子を見た若侍達は重方から聞いた話が関ヶ原の話で最も素晴らしかったと称えたと言われます。

かつての粗暴はなりを潜め、若者を相手にする際にも麻裃を着用して面会するなど、多くの人に慕われる好々爺として老後を過ごした中馬重方は、寛永12年(1635年)12月18日に70年の生涯を終えました。

(寄稿)太田

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