備中高松城の戦い 備中高松城の水攻め 蛙ヶ鼻築堤跡

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1582年、織田信長より毛利攻めを命じられた羽柴秀吉宇喜多直家を含めた3万にて、毛利勢として清水宗治らが籠城する備中・高松城に押し寄せました。
そして、毛利の援軍も来るとにらみ合いとなりましたが、黒田官兵衛の秘策を受けて、蛙ヶ鼻から3キロの堤防を築いたとされています。

水攻めによる効果としては、籠城する備中高松城を孤立させる効果がまずあります。

兵糧の搬入も、船でないと不可能となりますので、取締りが容易になります。
そもそも、陸の上ですので、船がたくさん手に入りません。
兵糧攻めの効果は抜群です。

当然、城内の環境は悪化し、病人も出やすくなります。




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また、籠城する兵だけでなく、援軍に来ている兵にも「国力」(経済力など)の差や、威光を見せつけられます。




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蛙ヶ鼻築堤跡

そんな備中高松城の水攻めの史跡として、蛙ヶ鼻築堤跡(かわずがはな)があります。
黒田官兵衛の秘策により、羽柴秀吉は堤防を築く決断をしたとされています。

堤防は門前村(JR吉備線足守駅付近)から蛙ヶ鼻(石井山南麓)までの東南約3~4キロメートルに渡り、足守川をせき止めるものでした。

備中高松城の水攻め

築堤奉行は蜂須賀正勝です。
宇喜多忠家は黒田孝高の指導を受けながら、難所の門前村から下出田村まで担当しました。

蛙ヶ鼻築堤

原古才村は蜂須賀氏が、松井から本小山までは、堀尾吉晴、生駒親正、木下備中、桑山重晴、戸田正治ら工事をし、蛙ヶ鼻より先は但馬衆が行ったと言います。

蛙ヶ鼻築堤跡

浅野長政は、完成後に必要となる船や船頭を集めました。

工事には兵士だけでなく、付近から農民を動員しました。
農民には、土を入れた俵を持参すると、1俵に付き銭100文、米1升という高報酬を与えたと言います。

たまたま増水した?

もともとは、足守川ではなく、龍王山北東麓の鳴谷川を堰き止めて(流れを変えて)、川水を引き込む予定で、そのためには、微高地(峠)を「掘る」必要があり、工事を開始しました。
備中高松城よりも標高が高い場所、最上稲荷より北を流れる鳴谷川から、県道241号沿いに水路を掘っていたと言うことですね。
その峠を約410m、深さは最大で9m、採掘する予定だったと言います。
羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、織田信長を招く予定でしたので、工期は厳命されていたのでしょう。
工事がうまく行かなかった責任を取って普請奉行が自害した(切腹させられた?)とあり、その墓が長野浄水場北側の山裾にあると言います。
豊臣秀吉としては水攻めと言うスゴイ戦術で挑んでいる状況を、織田信長に見せたかったのだと、小生は考えています。
すなわち、水を引き込む工事は予定通り進まず難航していたようで、残り90mほどとなった時に、麓の足守川のほうが増水したため、築いていた堤防に水が行き渡ったのかも知れません。
という事は、備中高松城の水攻めは、黒田官兵衛らが考えた想定どおりにうまく行ってなかったけれども、ちょっと違う形で、たまたま、うまく行ったのかも?なのですが・・。
もしかしたら、そもそも、足守川と鳴谷川の両方から引き込み、万全の体制を取る計画だったのかも知れないと考えますと、恐るべし周到な戦略です。

いずれにせよ、完成していた堤防が奏をこうして、足守川から増水した水が貯まる結果となると、羽柴秀吉は堤防の上に見張り場を設けて、備中・高松城内の様子を監視しました。

備中高松城の戦い

備中高松城の付近では水深150cmほどになった模様です。

世界では水攻めはあったのか?

日本では備中高松城の戦い、埼玉の忍城の戦い、紀伊・太田城の太田城の戦いが「日本3大水攻め」と呼ばれます。

この水攻めは、日本独特のものなのか?、それても世界でもあったのか?、ちょっと調べてみました。

調査しました結果、海外でもありました。

紀元前400年と、2400年前の事ですが、中国は晋陽の戦いで堤防を築いて水攻めを行い、1年後に食料も尽きたとあります。

黒田官兵衛の発案だとしたら、黒田官兵衛は、書物などで、過去に中国で水攻めと言う戦法があったことを、頭の片隅では知っていたのかも知れません。

しかし、効果的に行うためには、できる限り短期間で、頑丈な堤防を完成させる必要性があります。

蛙ヶ鼻の堤防は、唯一、現存する堤防の遺構ですが、幅は24m、高さ7m(完成時は8m)、上部の幅12mの規模です。
この規模で、約3kmに渡って、堤防を築いたのですが、機械化が進んでいる現代でも、普通に工事したら、6ヶ月~1年くらいは要する大工事です。

底部は、杭列(くいれつ)と土俵(つちだわら)の痕が確認されています。

蛙ヶ鼻築堤跡

上層部には花崗岩の風化土が主で、他にも陶器片や五輪塔の断片、そして骨片なども出ています。
特に真砂土は、砂ですので運搬しやすいですが、ちょっと水を掛けると優れた強度を持つ砂で、現在でも、道路工事の下地など舗装によく使用されます。

このように、単に、闇雲に堤防を作ったと言う事ではなく、きちんとした施工方法を取って、頑丈に作っています。
しかも、工事着手から、わずか12日間で完成しました。
こんなに短期間で完成させるとなると、今でも、大量のマンパワーとお金が必要ですが、それをやるだけの力が、当時の羽柴秀吉にはあったので、実現もできた訳です。




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ただし、本当に3kmもの堤防を12日間で作れるのでしょうか?
しかも、近くには毛利勢も陣を張っている状況でです。
実際には自然堤防や微高地を巧みに繋ぎ合わせたと推測しますが、それができたとしても、黒田官兵衛はスゴイとしか言いようがありません。
※堰止する方法は黒田家臣・吉田長利の献策ともされます。

1590年の小田原攻めでは、石田三成が忍城攻めの際に、同様に水攻めを行いました。

しかし、時代の流れで「大砲」を使用するようになると、大砲を撃ちかけられては、堤防も破壊されやすくなったため、戦国時代後期には水攻めじたいが時代遅れとなり、戦法としては消滅しました。

蛙ヶ鼻築堤跡への交通アクセスですが、鉄道の場合、JR吉備線「備中高松駅」にて下車して徒歩約10分となります。
無料駐車場は下記の地図ポイント地点に3台ほどとなり、トイレもあります。

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