御館の乱 上杉謙信死後の壮絶な跡継ぎ争いと上杉景虎(北条三郎)

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1578年、上杉謙信が急死したあと、上杉家の後継者を争ったのが「御館の乱」(おたてのらん)となります。

抜群のカリスマで家臣らを統率してきた上杉謙信が、春日山城の厠で倒れて昏睡状態となり、1578年3月13日に急死します。
上杉謙信には子がおらず、後継者としては、上杉景虎(北条三郎)(25歳)と、上杉景勝(24歳)の2人を「養子」にしていました。
しかし、どちらを後継者に指名するのか、伝えずにこの世を去ることになります。
また、養子がひとりだったら良かったのですが、同じくらいの歳の若者が2人であり、どちらも、優越つけ難い状況でした。

上杉景虎(北条三郎)には、同じく仙桃院が産んだ長女・清円院(せいえんいん)が嫁いでおり、すでに道満丸をもうけていました。
そのため、仙桃院も、清円院と行動を共にしており、当時の上杉家は、武田勝頼北条氏政とも同盟関係でしたので、対外的には、上杉景虎(北条三郎)を跡目にと考えていたはずです。
上杉景虎(北条三郎)は、上杉謙信が養子にした訳で、義理にも景勝の兄と言う立場ですので、北条家からしてみれば、跡目だと思いこんでいたことでしょう。




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しかし、家中としては、上杉謙信の姉・仙桃院が産んだ、血縁関係のある上杉景勝を押したくなります。
上杉景虎(北条三郎)を当主にしてしまったら、事実上、上杉家は、北条家の傀儡(かいらい)になる可能性もありますのでね。
もはや、上杉謙信が、どちらを跡継ぎにしようと考えていたのかは、関係なくなり、上杉家の家中では、上杉謙信の死の直後から、騒動が勃発しました。

これが「御館の乱」です。

上杉謙信の死から翌日には、景虎派の柿崎晴家が、景勝派によって暗殺されたとされます。

そして、景勝派は、春日山城の本丸を占拠して、金蔵、兵器蔵を接収し、国内外へ向けて後継者になったと宣言します。
これに対して、景虎派は、春日山城の三の丸にあった上杉景虎の屋敷を中心に立て籠もりました。

春日山城・三の丸

上杉景勝に味方した諸将は、上杉謙信の側近だった武将や、旗本(直臣)が多く加わっています。
春日山城を中心にした上越や、上杉景勝の本拠地である魚沼・三島、阿賀北など揚北衆(あがきたしゅう)の大半が支持しています。

上条政繁、山浦国清、山本寺孝長、甘粕景持、柿崎千熊丸(柿崎晴家の嫡男)、河田長親、斎藤朝信、吉江資堅、直江信綱、鯵坂長実、今井国広、上野家成、千坂景親、山吉景長、吉江宗信、吉江景資、大石綱元、北条高定、安田顕元色部長実、新発田長敦、五十公野治長、長沢道如斎、竹俣慶綱、中条景泰、築地資豊、本庄繁長安田長秀、安田有重、水原満家、下条忠親、須田満親、菅名綱輔、山岸隼人佐、山崎秀仙、大井田景国、狩野秀治、樋口兼豊、樋口兼続、樋口与七、岩井信能など。
兵力数不明。

これに対し、上杉景虎に味方したのは、関東管領・上杉憲政にゆかりある上杉一門衆や越後長尾家、上杉家の有力者・北条高広、本庄秀綱ら旗本や側近もいます。
なお、最大の違いは、同盟国である北条家・武田家だけでなく、北条家と同盟していた伊達政宗、蘆名盛氏・大宝寺武藤家の武藤義氏も支持しています。

上杉憲政、上杉憲重、上杉景信、上杉景満(上杉信虎)、山本寺定長、琵琶島善次郎、桃井義孝、神余親綱、河田重親、本庄秀綱、椎名景直、堀江宗親、北条高広、北条景広、鮎川盛長、黒川清実、加地秀綱、本庄顕長、下久長、岩井成能など。
兵力は6000。




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越後の各地では、にらみ合い、もみ合いなどが多数勃発しました。
5月からは、本丸の景勝勢が、三の丸にいる景虎勢への攻勢に出て、5月13日には、景虎が御館に退去し、小田原城に救援要請します。
また、5月17日、22日と、何度も春日山城へ反撃もしましたが、失敗しました。
その間、北条高広・北条景広は、三国峠の猿ヶ京城(宮野城)など国境を攻略し、相模の北条勢が北陸に入るルートを確保しました。
しかし、この頃、北条氏政・北条氏照らは、佐竹・宇都宮の連合軍と合戦中で、援軍を送る余力がなく、武田勝頼に景虎助勢を要請します。
これを受けて武田勝頼は、5月下旬に武田信豊を先鋒とする2万を送り、5月29日頃には野尻湖付近に到着しました。
また、蘆名勢は蒲原安田城を攻めると新発田城へと向けますが、景勝勢の五十公野治長によって撃退されています。

6月に入ると、上杉景勝の使者として斎藤朝信、新発田長敦らが、武田勢の武田信豊・跡部勝資・春日虎綱に接して、和睦交渉が行われます。
金山も枯渇しつつあり、経済的に苦しい武田勝頼は、上杉領である上野沼田領の割譲と黄金提供などの条件を受け入れて、景勝勢に味方することになります。
6月12日、同盟が成立すると、景勝勢は直峰城の長尾景明を討ち取り、春日山城と上杉景勝の本拠地・坂戸城(上田庄)との連絡を可能にし、上杉景信も討ち取りました。

そのため、援軍も期待できない景虎勢は、春日山城下まで入った武田勝頼の仲介もあり、景勝勢と和睦します。

ところが、徳川家康が、隙きを突いて、武田領の駿河・田中城へ侵攻したため、武田勝頼は僅かな兵を残して甲斐へと戻ったため、和平はすぐに破綻します。

9月になると、北条氏照・北条氏邦の北条勢が厩橋城から三国峠を越えて荒戸城を攻略し、坂戸城近くの樺沢城を占拠し、坂戸城への攻撃を開始しました。
しかし、景勝勢はこれをよく守り、冬になると、補給などが困難となる北条勢は樺沢城に北条氏邦・北条高広・北条景広をおいて、本隊を関東に戻しています。
なお、上杉景勝は坂戸城と信濃を結ぶ、重要な妻有城を武田に割譲し、武田勢の大熊長秀と市河信房が入るなど、切り身の戦略にて坂戸城を守りました。

10月に入ると、御館に籠もる景虎勢は、兵糧が亡くなり、いったんは兵糧搬入に成功し、春日山城を攻めもしましたが、膠着状態のまま年を越します。
そして、雪解けを待てず、景虎勢は諸将は落城したり、離反したりと、窮地に陥いりました。

1579年2月1日、上杉景勝は、御館の上杉景虎(北条三郎)に対して総攻撃を開始します。
そして、荻田長繁が北条景広を槍で討ち取ったことで、景虎派は中心人物の一人を失います。




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小田原北条勢が籠もっていた樺沢城も、景勝勢が奪還し、冬期で北条家からの救援を望めない上杉景虎(北条三郎)は窮地に立たされます。
3月17日、道満丸を人質として和睦交渉するため、上杉憲政が御館から脱出して、上杉景虎の子・道満丸と共に、上杉景勝の陣へ向かいます。
しかし、その途中、直江兼続の家来・荻田長繁によって、道満丸もろとも殺害されました。

御館は放火されて落城し、上杉景虎は脱出すると、小田原城を目指して落ち延びようとします。
その途中、味方の鮫ヶ尾城に寄りましたが、城主・堀江宗親が裏切り、3月24日に自刃し、約1年に渡った御館の乱はひとまず決着をみました。

鮫ヶ尾城

正室の清円院も、鮫ヶ尾城にて自害したと考えられています。
仙桃院は、上杉景勝の保護を受け、春日山城に戻っています。

こうして、上杉景勝が後継の座を勝ち取りましたが、直江兼続の戦略が功を奏したとも言われています。
天正7年7月20日、武田勝頼の妹・菊姫が、上杉景勝の正室として輿入れしたため、北条氏政は武田家との同盟を破棄しています。

ただし、景虎勢の一部は、そのあとも1年くらい抵抗を続け、最後まで抵抗した本庄秀綱や神余親綱らを討ったのは、1580年でした。




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なお、家中を2分した内乱であったため、上杉家の戦力は大きく低下し、織田信長の重臣・柴田勝家などの侵攻を食い止めるのには深刻な状態となり、加賀・能登・越中を失います。

1582年、武田勝頼が織田信忠らの大軍に攻め込まれても、上杉家は援軍を送る余裕はありませんでした。
魚津城の戦いにて、魚津城も失った上杉景勝は、まさに、滅亡の一歩手前までとなりましたが、ここで「本能寺の変」が発生します。
その結果、越後は守られ、北信濃へ兵を進めて支配下に置きましたが、それ以上の軍事行動はできないまで、疲弊していました。

それにしても、養子とは言え兄を討った上杉景勝ですし、先に春日山城の本豆を占拠した訳ですので、それを考えると反乱を起こしたのは上杉景勝と言っても良いのではと思います。
普通に考えれば、この戦いには「越後の内乱」とでも呼ぶべきものですが、勝てば官軍でして、勝者の上杉景勝側は、上杉景虎のほうが悪いと印象づけるような「御館の乱」と呼ぶようになったのでしょう。

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