関ヶ原の戦いにおいて、毛利家は石田三成の要請に応じ、大阪城に参じます。
そして、毛利輝元が西軍の総大将となりました。
当然、毛利家の親族である吉川家、小早川家は毛利本家に従い兵を大阪に出します。
このように毛利家を支えていた吉川広家は、吉川元春の3男でしたが、月山富田城主14万石として吉川家の家督を継いでおり、毛利本家・毛利輝元の補佐筆頭として、毛利家の存続を強く考えた武将でもありました。
そのため、西軍には加わっていますが、長年毛利家を支えた主戦派の安国寺恵瓊(62歳)と対立してまで、吉川広家(40歳)は毛利家の「不戦」を主張しています。
石田三成から西軍総大将の要請を受けた毛利輝元(48歳)は、安国寺恵瓊の説得もあり受諾します。
これに対して、吉川広家は毛利家存続の為には徳川家康に味方するべきだと反論し、安国寺恵瓊と大坂城で激論になったとされます。
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徳川家康の勝利を確信していた吉川広家は、毛利家重臣の福原広俊・宍戸元続・益田元祥・熊谷元直と共に、友人でもあった東軍の黒田長政に密かに連絡し、徳川家に内通すると毛利家の所領安堵の確約を得ます。
吉川家はお家断絶の危機があったのですが、その時に救ってくれたのが、黒田長政の父・黒田官兵衛だったのです。
更に吉川広家が浅野長政と伏見城にて喧嘩した際にも助けてくれたのが黒田長政でした。
そして、吉川広家は豊臣秀吉も石田三成も嫌いだったのです。
そのため、吉川広家は単独でも徳川勢に合流すると、家臣を駿府城にも向かわせていたくらいです。
しかし、毛利輝元が代理で派兵する毛利本隊の総大将を毛利秀元(22歳)とし、その補佐を吉川広家に命じたため、吉川広家は西軍として行動していました。
吉川広家は、関ヶ原合戦の前日にも、重臣である福原広俊と粟屋氏から身内を徳川家へと人質に出し、榊原康政・本多忠勝・井伊直政・福島正則・黒田長政からも所領安堵の約束を確認しています。
南宮山での先陣を決める際には、長束正家が申し出たそうですが、吉川広家がどうしてもと言うので、先手を譲ったとされます。
ちなみに、石田三成らが大垣城を出て、関ヶ原に布陣したのは本戦当日である1600年9月15日ですが、南宮山に布陣した面々はそれよりもっと前の1600年9月7日に陣を張っています。
こうして、9月15日に合戦が始まっても、南宮山の麓に3000にて待機していた吉川広家は、西軍総大将・毛利秀元17000の出撃を妨害しました。
1600年9月15日の朝8時、関ヶ原の戦いが始まりますが、南宮山に布陣した西軍は動きませんでした。
これは、南宮山での先鋒とも言える吉川広家が動かなかったためです。
安国寺恵瓊は椎野道季を派遣して出陣を促しますが「坊主に戦の何が分かるか?」と追い返します。
また、長宗我部盛親、長束正家からも出陣の催促が届きますが、吉川広家は「霧が濃くて道が見えないから、霧が晴れば攻める」と言って出撃を拒否。
更に、総大将・毛利秀元からも出撃命令が届くと「これから行厨(こうちゅう)を食べる」と言う理由で拒否したと言われています。
行厨と言うのは「弁当」の事です。
やがて、一斉攻撃の合図として石田三成が狼煙(のろし)を上げます。
この時、毛利秀元は山を降りようとしたようですが、吉川広家がまだ早いと反対します。
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長宗我部盛親が直接、毛利秀元に対して出陣要請をしたところ、困った毛利秀元からは「今は兵が弁当を食べているから出陣できないんだよ」と返事があったことから、この弁当の話は「宰相殿の空弁当」と呼ばれるようになりました。
毛利秀元の官位は参議であり、唐名では「宰相」だったことから「宰相殿」と言う事になります。
午後になると同じく毛利家の一族でもある小早川秀秋が松尾山から降りて東軍に寝返り、西軍は敗退しました。
吉川広家が戦闘しなかったと言う事は、事実上の寝返りである事には間違いありませんが、毛利家はそれでよいとしても、西軍は大きな迷惑となったのも間違いありません。
吉川広家の陣を避けて、後方の軍勢は、迂回して、山を下りれば、よかったのではと、少し疑問に感じました。
しかし、吉川広家の陣は、先陣ですので、一番、先であり、ほとんど「麓」です。
その麓に、武装した軍勢を、まとめて降ろせる道は、ほとんど「1本道」であり、吉川勢がどかないことには、後方の軍勢も、動けない状態に陥ったものと存じます。
パラパラと、無理して細い道を降りては、まとまった行動がとれないため、平坦な麓で集合するにしても、全員集まるのに、何時間も要しますので、東軍に捕捉されますと、すぐに、やられてしまうと言う事ですね。
おまけに、もし、吉川広家が裏切って東軍として行動すると、先に進んだ西軍は、背後を突かれることになります。
このような、理由で、南宮山に入っていた大軍の西軍は、戦わなかったため、西軍の敗北を決定づけました。
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安国寺恵瓊は逃亡しますが、捕えられて石田三成・小西行長と斬首。
長宗我部盛親は所領没収となり、京にて浪人し、のち大阪の陣に参加するも、捕縛されて斬首。
長束正家は居城・水口城に逃れるも降伏すると捕縛されて切腹。
吉川広家は徳川家との約束を果たしたはずでしたが、徳川家康は一部に約束違反があったとして、毛利家120万石を30万石へと減封します。
しかも、毛利輝元を追放して、吉川広家にその30万石を与えようとしたので、さすがに吉川広家は徳川家康に頼みそれだけは回避します。
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しかし、そのような徳川家との事実があったことを知った毛利秀元は怒って、大阪城に戻ったあとも毛利輝元に対して、徹底抗戦するべきだと主張しました。
その為、長州藩においても、毛利秀元系の「長府藩」と吉川広家系の「岩国領」とでは、長く確執が残ったと言います。
ただし、ひとつ言える事としては、毛利家にて唯一、吉川広家が当初から徳川家康に味方すると約束して、南宮山でも28000の軍勢を動かさない事に成功した為、毛利家は所領没収とまではならなかったと言うのは確かであり、毛利家を救ったと言えるでしょう。
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吉川広家陣跡の場所
吉川広家陣跡の案内板がある場所は、ズバリ下記の地図ポイント地点となります。
不破高校があるのですが、その西側にある空き地となります。
下記のオリジナルGoogleマップの方が、詳細に見れます。
短時間でしたら路肩に止められます。
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