本多正重(ほんだ-まさしげ)は1545年、本多俊正の4男として生まれた。
兄に本多正信がおり、共に松平家康の家臣として仕えた。
1563年、三河一向一揆では兄と共に一揆勢の武将として徳川家康と敵対。
しかし、1564年に徳川家康が一揆を鎮圧すると、徳川家に帰参したようだが時期などは不明である。
その後、遠江・掛川城攻め、1570年の姉川の戦いと活躍。
この年、正室である門奈氏の娘との間に、嫡男・本多正氏が生れている。
1572年には武田信玄との一言坂の戦い・三方ヶ原の戦いで殿軍を務め戦功を挙げているが、知略で有名な兄・本多正信と違って、槍の名手で剛勇だったらしく織田信長からは「海道一の勇士」と評されたと言い、徳川家康も武将としては評価していた。
また、1575年、武田勝頼との長篠の戦いでの活躍も見られる。
どうも三河武士らしく、主君・徳川家康に対しても、遠慮なく何でも言ったらしく、尚且つ頑固だったともされ、設楽原の戦いの直後に、本多正重は徳川家を出奔して浪人した。
槍一本で渡り歩いた典型例であり、そのあと滝川一益に仕えると播磨・神吉城攻めに参加。
のち前田利家に属すると佐々成政と戦い、武功を挙げているが、その後には会津に移動して蒲生氏郷に仕えている。
ただし、これら出奔して他家へ頻繁に鞍替えしていることからも、徳川家の間者として情報収集を担当したのではともされている。
なお、長男の本多正氏(ほんだ-まさうじ)は1588年から徳川家康の近習として仕えていたようで、陸奥の九戸政実攻め、朝鮮攻めの際にも肥前・名護屋城に詰めなどに徳川家康に随従している。
ただし、1592年から父同様に徳川家から出奔した。
父同様に頑固だったのではとする説もあるが、同様に他家へ潜伏したとも言われている。
その後、本多正氏は豊臣秀次の重臣・羽田正親と懇意となると、豊臣秀次の重臣に加わった。
しかし、1595年、豊臣秀次事件によって豊臣秀次が自害し、羽田正親と共に殉死している。享年26。
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一方、本多正氏は1595年に蒲生氏郷が死去すると、蒲生家でお家騒動となり、蒲生家を去って、1596年に徳川家の旗本として復帰した。
なお、蒲生氏郷が亡くなる前に3回喧嘩をして蒲生家を出たともされている。
1600年、関ヶ原の戦いで本多正氏(55歳)は徳川家本陣にて諸軍指揮を任され、検使を務めている。
その功績にて、1602年に近江・坂田郡内に1000石を与えられた。
1614年からの大坂の陣では、徳川秀忠の旗本として参謀を務めている。
そして、1616年7月、下総・相馬郡舟戸(千葉県柏市)にて1万石となり、本多正重は下総・舟戸藩主として大名に列した。
しかし、官位は生涯受けず、通称の本多三弥あるいは本多三弥左衛門で通しているのも珍しい。
本多正重は翌年の1617年7月3日に死去。享年73。
京都の泉桶寺に葬られた
本多正重は遺言で減封を願っていたともさり、舟戸藩は僅か1年で8000石に減封となり、あとを継いだ娘の子・本多正貫(養子)は、藩主ではなく大身旗本となっている。
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