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1584年、羽柴秀吉(豊臣秀吉)と徳川家康が戦った「小牧・長久手の戦い」シリーズですが、関ケ原でも活躍した岩崎城主・丹羽氏次にも繋がるお話で、岩崎城の写真と共に掲載いたします。
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岩崎城
尾張・岩崎城(いわさきじょう)は、織田信長の父・織田信秀が築城したとされますが、築かれた年代は不明です。
1529年に、松平清康7000にて岩崎城を攻撃し、岩崎城の戦いとなりました。
この時、織田勢の岩崎城主・荒川頼宗が抵抗しましたが、陥落したようです。
しかし、1535年、世に言う「守山崩れ」にて松平清康が死去すると、松平家の尾張攻め案内人を務めていた本郷城主・丹羽氏清が本拠としました。
岩崎城の本丸には、公園整備中に偶然発見された6世紀ごろの古墳もあります。
1551年には、横山の戦いが勃発しています。
岩崎城主・丹羽氏清・丹羽氏識(にわ-うじさと)の親子と、丹羽一族の藤島城主・丹羽氏秀の親子とで権力争いとなりました。
17歳だった丹羽氏秀は織田信長に援軍を頼むと、織田勢と岩崎城の丹羽勢が横山(日進市岩崎町北高上付近)にて合戦となりました。
この時、待ち伏せを食らった織田勢が敗退したため、丹羽氏清と丹羽氏識は三河へと落ち延びたとされています。
三河では徳川家康より、乙尾・一色・赤羽根を与えられたようです。
織田信長と徳川家康が清洲同盟を結ぶと、岩崎城に復帰した丹羽氏は、織田信長の家臣となりますが、それでも三河の所領は安堵されました。
丹羽氏識の跡を継いだのが、丹羽氏勝で、丹羽氏次(にわ-うじつぐ)は、1550年に丹羽氏勝の長男として生まれました。
母は不詳ですが、父・丹羽氏勝の妻は織田信秀の娘です。
尾張の丹羽氏としては、織田家の宿老・丹羽長秀の方が有名です。
丹羽氏は、丹羽長秀の児玉丹羽氏(良岑丹羽氏)と、この丹羽氏次の一色丹羽氏と言い、お互いに血縁関係はありません。
桓武天皇と百済永継の間に生まれた良岑安世を始祖とする、良岑氏(よしみねうじ)の丹羽長秀は1550年から織田信長に仕えました。
一色丹羽氏は、九州探題・一色範氏の長男である一色直氏の末裔で、尾張国丹羽庄を領したことから、丹羽氏次が生まれた頃、父・丹羽氏勝(にわ-うじかつ)は尾張の守山城主・織田信次の家臣となっていました。
この織田信次と言う武将は、織田弾正忠家(勝幡織田氏)で、清洲織田氏(大和守家)の家臣と言う立場です。
1555年6月、松川の渡しにて川狩りを楽しんでいたところ、ひとりの若武者が馬で通りかかりますが、馬から下りずに通り過ぎようとしたことから、織田信次の家臣・洲賀才蔵が弓で無礼討ちしました。
ところが、この射殺した若武者に近づいてみると、織田信長の弟・織田秀孝(15歳前後)であることがわかったのです。
すなわち、主家である清洲織田氏・織田信長の弟を殺害してしまったと言う事で、慌てた織田信次はそのまま逃走したと言います。
織田秀孝の死を聞いた織田達成(織田信勝)は激怒し、守山城の城下を焼き払い、守山城を攻撃しましたが、この時、守山城に守備側に。丹羽氏勝の名が見られます。
その後、織田信長に臣従したようで、1570年には、姉川の戦いにも参陣するなど、織田勢として転戦しました。
しかし、1580年8月、林秀貞・安藤守就が織田家から追放された際に、丹羽氏勝も突如追放となりました。
追放された理由は、織田信長に逆心を抱いていたからだとされています。
しかし、長男・丹羽氏次には、特にお咎めは無く、岩崎城を引き継ぎ、以後は織田信忠の家臣に加えられました。
1580年、織田信長が鷹狩のために岩崎城を訪れた際には、丹羽氏勝の家臣が織田信長の怒りに触れて、手討にされると言う事件もあります。
1582年の甲斐攻めでは、織田信忠の軍勢として、木曾義昌・織田長益らと甲斐へ入っています。
本能寺の変のあと、清洲会議を経て、織田信雄が尾張・伊賀・南伊勢で100万石となったため、尾張・岩崎城の丹羽氏次は、織田信雄の家臣となっています。
丹羽氏次は、丹羽勘助とも呼ばれており、岩崎城には「勘助の井」と言う井戸もあります。
しかし、丹羽氏次は織田信雄と対立して勘気を被り、天正11年(1583年)には、徳川家康の家臣に列しました。
丹羽氏次の正室は鈴木重信の娘ですが、この鈴木重信は三河・寺部城主だった鈴木氏の一族なのか?、井伊谷3人衆でもある鈴木重時の親族なのか?、ハッキリしません。
そして、天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いとなった訳です。
岩崎城は弟・岩崎氏重に守備させ、丹羽氏次は徳川家康に従い、小牧山城に入りました。
そして、1584年、小牧・長久手の戦いでも、岩崎城の戦いがありました。
岩崎城の戦い
この時、岩崎城主であった丹羽氏次(丹羽氏清の4代後)は徳川家康に従って小牧山城に入っていたため、留守の岩崎城は弟・丹羽氏重が守っていました。
森長可3000が一色城と長鍬城を焼き討ちし、火の手を確認した丹羽氏重と、長久手城主・加藤忠景(加藤景常)は偵察をさせて、松明を持たずに夜間行軍してくる豊臣勢を発見します。
そのため、丹羽氏重は、女・子供を城の北西にある空濠から妙仙寺へと逃し、丹羽茂次を小牧山城に派遣して、徳川家康に援軍を要請しました。
そして、早朝4時に、豊臣勢に対して先制攻撃を掛けます。
岩崎城に迫っていた池田恒興が反撃すると岩崎城の軍勢は引き上げため、午前5時より岩崎城へ総攻撃を開始します。
伊木忠次2000を率いて大手門に向かい、片桐俊忠2000は搦手門へと接近しました。
この時、岩崎城の守備兵は僅か300だったとされますが、池田勢を3度撃退したとあります。
丹羽氏重は岩崎城の石橋で奮戦しましたが、森長可らの鉄砲で狙われると、ひるんだため、その隙に討たれて討死しました。享年16。
そのため、岩崎城は混乱し、朝7時には落城したと言いますので、戦闘は約3時間でした。
他にも丹羽伝七郎、丹羽四郎右衛門も討死した他、16歳の丹羽氏重を補佐していた長久手城主・加藤忠景(加藤太郎右衛門忠景)も命を落としたとされます。
下記は岩崎城の井戸ですが、結構、大きいです。
なお、小牧山城へ援軍を求めた丹羽茂次ですが、すでに主君・丹羽氏次は徳川勢の道案内役として、榊原康政らと小牧山城を出て、長久手に向かっていたといいます。
しかし、岩崎城が壮絶な戦いの末、落城したのに対して、ひとり生き残ったなどと陰口を言われたようです。
そのため、3ヶ月後の蟹江城の戦いにて、丹羽茂次は先頭に立って勇猛果敢に戦い、壮烈な最後を遂げています。
ほぼ徹夜で戦った池田勢は疲労が大きかったようで、六坊山にて朝食・休憩を取り、首実検を行いました。
堀秀政も兵糧を運んで食事をさせましたが、羽柴信吉(豊臣秀次)の救援要請にて引き返してました。
森長可は、前山まで引き返したのち、岐阜根まで後退して布陣すると池田勢の到着を待つことになったのです。
徳川家康に同行していた岩崎城主・丹羽氏次は、細ヶ根の麓にて、丹羽茂次より敵迫るの報告を受けました。
そのため、家老・鈴木光澄と鈴木重益の父子以下20名を岩崎城へ拝見して、丹羽氏次は細ヶ根に攻め登っています。
鈴木光澄と鈴木重益は、六坊山の中腹に岩崎城の兵238の首級が置き去りにしてあるのを確認して、丹羽氏次に合流しました。
※池田恒興は、城代・丹羽氏重の首級だけ持たせて後退したようです。
なお、城代・丹羽氏重の首は、春田将吉が仏ヶ根付近にいた池田勢から奪い返して、徳川家康に届けています。
その後、丹羽氏次は徳川家康の仲介で再び織田信雄に仕えると、伊勢に7000石を与えられて移封しました。
しかし、1590年、豊臣秀吉の小田原攻めのあと、織田信雄は改易されてしまいます。
この時、丹羽氏次は徳川家康の家臣に入りたいと、豊臣秀吉に懇願したようですが、豊臣秀次に仕えることになりました。
ただし、嫡男・丹羽氏資(にわ-うじすけ)は、徳川家の直臣となり、上総国武射郡において所領を与えられましたが、1599年、伏見城にて早世しました。
関ケ原の戦いでの丹羽氏次
1600年、関ケ原の戦いの際、丹羽氏次は東軍として岩崎城の守備を命じられます。
また、石田三成に味方した岩村城主・田丸直昌からの攻撃が考えられた、妻木頼忠の妻木城の改修に、数百人の人夫を送った他、妻木頼忠と共に田丸領内に放火などしました。
その後、関ケ原の本戦にも参加したことから、三河国伊保(岡崎市)に1万石を与えられ、丹羽氏次は初代藩主となりました。
現在ある岩崎城の天守は、模擬天守となります。
なお、丹羽氏次と継室・加藤忠景の娘の間には、1590年に丹羽氏信(にわ-うじのぶ)が生まれています。
この丹羽氏信は、早世した兄・丹羽氏資の嫡子となっています。
1601年3月19日、父・丹羽氏次が死去。(享年52?、または53)
その死後、丹羽氏信が家督を継ぎ、伊保藩(いぼはん)の2代藩主となっています。
この丹羽氏信は大坂の陣で武功もあったことから、1638年に、合計3万石にて、美濃・岩村城主となり、譜代大名として岩村藩の初代藩主となりました。
尾張・岩崎城へのアクセス・行き方ですが、岩崎城公園の無料駐車場は下記の地図ポイント地点となります。
岩崎城の見学所要時間は30分といったところです。
標高65mの平山城で、比高は15mほどで、公園整備されており、トイレなども完備されていますし、トレッキングポールなどは不要です。
小牧長久手の戦いを含む尾張・美濃の史跡を印した、オリジナルGoogleマップもございますので、ご活用賜りますと幸いです。
★番外編「小牧・長久手の戦い」に関する史跡や武将なども
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・蟹江城 豊臣勢と徳川勢の蟹江城の戦い
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