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柴田勝政・柴田勝重とは
柴田勝重(しばた-かつしげ)は、越前の勝山城主・柴田勝政の子として1579年に生まれた。
母は諏訪の高島城主として38000石にもなった日根野高吉の妹。(美濃・本田城主である日根野弘就の娘)
父・柴田勝政は犬山城主・佐久間盛次(佐久間信盛は従兄弟)の3男として1557年に生まれ、母は柴田勝家の姉であった。
この柴田勝政の武勇に感心した柴田勝家が、養子としたため、柴田姓になった訳だが、柴田勝家は柴田勝政を重用するようになったため、同じく勝家の養子だった柴田勝豊とは仲が悪かったと言う。
それが、1583年の賤ヶ岳の戦いで、柴田勝豊が裏切る要因になったとされ、柴田勝政は退却中に脇坂安治に討たれた。(諸説あり)
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北ノ庄城へ退いた柴田勝家はお市の方と自刃する前に、愛用の「兜」を柴田勝政の遺児・柴田勝重(4歳)に与え、母の実家である日根野高吉の元へ逃れさせたと言う。
この頃、日根野高吉は織田信孝の家臣であったが、のち羽柴秀吉に仕え出世していった。
そして、1594年頃、16歳になった柴田勝重(柴田三左衛門勝重)は元服し、日根野吉時の娘を正室に迎えた。
また、豊臣秀吉の死後には徳川家康の家臣となり、上野の群馬・碓氷両郡のうち2000石となった。
なお、1600年、関ヶ原の戦いにて柴田勝重は初陣を飾っている。
その後、1614年の大阪夏の陣、1615年の大阪冬の陣の功績にて、武蔵・上仙川村と中仙川村(東京都調布市仙川町付近)と、藤沢村(埼玉県入間市藤沢)などの加増を受け3500石の徳川家旗本として柴田勝重陣屋を構え、徒歩頭などを務めた。
その時、柴田勝家から預かっていた「兜」を供養のため、水神の森に鎮めたのが「柴田勝家の兜塚」となり、社殿を建てたのが三鷹市の勝淵神社と言う事になる。
北ノ庄にある柴田勝家の銅像が、兜を被っていないのは、このような理由があるのかも?知れない。
なお、柴田勝家の屋敷「島屋敷」の跡地は、新川団地と化しており、新川・島屋敷通りと言う道路名称が残されているのみである。
ただし、下記のようにかつて屋敷があったことを示す看板がある。
念の為、上記の島屋敷解説版のある場所を、地図のポイント地点で示しておく。
駐車場はバス停付近にあるスーパーの屋上駐車場に止めて、ジュースを購入させて頂いた。
1632年に亡くなった柴田勝重の墓は、仙川通りに面した春清寺にある。
春清寺の創建は1602年とある。
本堂の左側の墓地にある宝篋印塔が柴田勝重の墓と、その後2代、合計3代の墓所となっている。
春清寺へのアクセスだが、下記の地図ポイント地点が参拝者用の無料駐車場の場所。
さて、柴田勝家の兜塚がある東京・三鷹の勝淵神社も参拝させて頂いた。
本殿の右脇奥に柴田勝家の兜塚がある。
また境内には案内板があったので、念のため掲載する。
以上、東京の新宿から電車で20分と至近な三鷹でも、このように織田家の重臣だった柴田勝家にゆかり深い「戦国史跡」があり、戦国時代に思いを馳せながら散策できる。
是非地元の方には、将来に渡り大切に保護活動をし、また多くの方に伝えて頂きたいと願うばかりである。
・金子氏館 (島屋敷)の解説~金子時光・金子時光の屋敷・柴田勝重陣屋
・柴田勝家~勇猛果敢も温情深く大変親しみを感じる武将
・北ノ庄城(北の庄城)~北陸支配の柴田勝家とお市の方の居城
・柴田勝政と原長頼「越前・勝山城」