徳川家康・三河統一の戦い「善明堤の戦い」松平好景の討死【どうする家康】「藤波畷の戦い」
1560年、桶狭間の戦いにて織田信長が今川義元を討取ると、松平元康(徳川家康)は岡崎・大樹寺ほ経て三河・岡崎城に復帰。さっそく三河統一に着手するが、三河・吉良氏の吉良義安と駿府での人質時代に仲がよかったこと、そして吉良義安の旧領を支配して今...
1560年、桶狭間の戦いにて織田信長が今川義元を討取ると、松平元康(徳川家康)は岡崎・大樹寺ほ経て三河・岡崎城に復帰。さっそく三河統一に着手するが、三河・吉良氏の吉良義安と駿府での人質時代に仲がよかったこと、そして吉良義安の旧領を支配して今...
茶屋四郎次郎とは茶屋四郎次郎(ちゃや-しろうじろう)は、京都で呉服などを商いし戦国武将にも大きくかかわったた豪商です。もとは、小笠原長時の家臣・中島明延(中島四郎左衛門明延)が深手を負い武士やめて京都に店を構えたのが始まりとされ、将軍・足利...
松平忠吉とは松平忠吉(まつだいら-ただよし)は、戦国時代の武将で父:徳川家康の4男として、1580年9月10日に浜松城にて生まれた。母は側室のお愛の方(西郷局)で、徳川秀忠も生んでいる。1581年、東条・松平家の松平家忠が病死すると、2歳で...
酒井重勝とは酒井重勝は1549年生まれで、通称は酒井与九郎または酒井作右衛門尉重勝とされます。1653年、三河一向一揆の際に、酒井重勝は徳川家康と敵対しました。その後、徳川家の家臣に戻ると、1572年、武田信玄との三方ヶ原の戦いにて、徳川家...
大樹寺とは岡崎の大樹寺 (だいじゅじ) は、愛知県岡崎市鴨田町にある浄土宗の寺院。創建は室町時代の応仁元年(1467年)で、安城・松平家の当主・松平親忠が井田野の戦いで討死した死者を、敵味方の区別なく弔うために千人塚を築いて供養したのが始ま...
三方ヶ原の戦いとは戦国時代の三大英傑として挙げられるのは、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康です。その徳川家康が、最終的に戦国時代の覇者となり400年間の平和な時代が続いた江戸幕府を開いたことは、誰もが知るところです。スポンサーリンク (a...
お茶屋屋敷とは1600年、関ヶ原の戦いにて勝利し、天下を掌握した徳川家康は、全国に主要街道の整備を行った。やがて江戸幕府を開き、1609年に徳川家康が江戸城から上洛する際に、中山道の要衝であり、徳川家が関ヶ原で勝利すると言う「開運の地」とも...
杭瀬川の戦い杭瀬川の戦い(くいせがわのたたかい)は、関ヶ原の戦い(9月15日)の前哨戦となった1600年9月14日に発生した合戦です。9月14日のお昼頃に、徳川家康は3万とも言われる大軍を率いて美濃家坂に着陣します。この時、井伊直政・本多忠...
大垣城の歴史大垣城(おおがきじょう)は連郭輪郭複合式平城で、最盛期の規模は現在の敷地の広さからは想像もできない、4重にも水堀を巡らした総構えの城だったようです。大垣城の別名は麋城(びじょう)、巨鹿城(きょろくじょう)とも、牛屋城とも呼ばれま...
堀尾吉晴(ほりお-よしはる)は、1543年に、尾張の土豪・堀尾泰晴(堀尾吉久・堀尾泰時)の長男として生まれました。父は岩倉城主・織田信安の重臣で、1559年、堀尾吉晴は初陣を果たし、一番首を取ります。しかし、その相手は織田信長であり、敗れた...
1584年、羽柴秀吉(豊臣秀吉)と徳川家康が戦った「小牧・長久手の戦い」シリーズですが、関ケ原でも活躍した岩崎城主・丹羽氏次にも繋がるお話で、岩崎城の写真と共に掲載いたします。岩崎城尾張・岩崎城(いわさきじょう)は、織田信長の父・織田信秀が...
江戸幕府を開いた徳川家康(とくがわ-いえやす)は、幼少の頃には今川家の人質として育ちました。そして、織田信長、豊臣秀吉と言う強大な勢力に耐えつつ、見事に天下を取った訳ですが、どんな生涯を辿ったのでしょう?「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス...