本多忠勝の陣跡~軍監として関ヶ原の戦いに参じるもバズ抜けた働き【関ヶ原の史跡】

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関ヶ原の戦いで、東軍の「軍監」を任された本多忠勝は、現在の関ヶ原駅から南側となる「十九女池」の西側付近に陣を張りました。

その地とされる公門第ニ公民館と民家の脇には「本多忠勝陣跡」の石碑があります。

道路も狭いのですが、史跡への入口も狭く、下記の写真のところを入っていきます。

本多忠勝陣跡への入口

公民館と民家の軒先を入って行き、民家の裏庭のような、住宅に囲まれた広場に史跡があると言う形ですので、大声を出したりせず、静かに見学したいところです。

本多忠勝の陣跡

予定では井伊直政が軍監を務める予定でしたが、出陣前に病となり、本多忠勝が軍監を命じられました。
ただし、井伊直政も病気が回復し、関ヶ原の本戦には間に合っています。

本多忠勝は、開戦前こそ、この付近に陣を敷いたようですが、徳川家康の命を受けて、南宮山に布陣した毛利秀元が迂回してこないか?、鳥頭坂と言う、午後に島津豊久が討死したとも言われる場所まで部隊を動かして監視しました。
その為、、関ヶ原の戦いが始まった午前中は、本多忠朝や共に従った桑山一直らも、戦闘にはあまり参加していなかったようです。
午後になって、もう毛利秀元は来ないと判断すると、宇喜多秀家を横から攻撃したと言います。
そして、石田三成勢と戦いますが、島津義弘が中央突破して来ると、鳥頭坂へと逃れる島津勢を追撃しました。

このように、本多忠勝は宇喜多秀家・石田三成・島津義弘の追撃と、関ヶ原を縦横無尽に移動して戦闘に加わっていますので、まさに驚くべき機動力であり、本多忠勝の勇猛さを改めて感じずにいられません。

しかし、島津勢は「島津の退き口」と呼ばれる「捨てがまり」の戦術を取り、決死の覚悟で敵の指揮官を狙って狙撃しました。
同じく追撃した井伊直政と松平忠吉はその銃撃を受けて負傷していますが、本多忠勝も三国黒と言う愛馬が鉄砲で撃たれています。
馬は命を落とし、本多忠勝も落馬したと言います。

島津勢が逃げ延びたあとは、家臣の馬を借りると、最後の抵抗をしている石田三成勢の方角に転進すると言う、見事な戦いぶりであったとされます。
※諸説あります




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ちなみに、5000とされる細川忠興が討ち取った首の数は約140に対して、本多忠勝勢は約90の首級を取りました
ただし、本多忠勝が率いた部隊は400~500程度しかいなかったとされますので、その活躍ぶりはズバ抜けています。
下記は関ヶ原ウォーランドの本多忠勝です。

本多忠勝(関ヶ原ウォーランド)

なお、本多家じたいは約3000は動員できる兵力を有しています
しかし、中山道を徳川秀忠と共に進んだ、嫡男・本多忠政に大半の兵を預けていた為、本多忠勝は500程度しか率いていませんでした。
そして、本多忠政らは上田城にて真田昌幸と戦っています。

本多忠勝の役目は「軍監」でしたので、基本的には戦略・戦術を徳川家康に献策すると言うのが仕事であり、最低限の兵だけ連れていたと言う事になります。

さて、この関ヶ原の本多忠勝史跡の付近には、残念ながら駐車場がありません
住宅市でもあり道路も狭いので、路肩に止めると地元の方にご迷惑を掛けてしまいます。
ヒントとしては、買い物がてら、陣跡の南側にある地元企業のホームセンター「ウッドペッカー」さんを利用させて頂くと言う方法も取れるのでは?と推測致しますが、自己責任にてお願い申し上げます。

JR関ヶ原駅からは徒歩7分といったところでしょうか?
下記の地図ポイント地点は、まさに本多忠勝陣跡の石碑がある場所を差してあります。

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