奥平貞治の墓~関ヶ原合戦の折り東軍で命を落とした唯一と言って良い武将史跡

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奥平貞治(おくだいら-さだのぶ)は、兄・奥平貞能と共に徳川家康に従い、三河・長篠城を500にて守備していました。
1575年5月に武田勝頼が15000にて長篠城を包囲し「長篠の戦い」となった際にも、大軍を相手に激戦の中、長篠城を守り切った武将とされています。

その後、1586年に徳川家康が上洛して、豊臣秀吉に謁見した際、奥平貞治も従って上洛したのですが、その時、豊臣秀吉の希望により、奥平貞治は5000石にて豊臣家の黄母衣衆となりました。

関ヶ原の戦いにおいては、奥平貞治は徳川家康の会津征伐にも同行しています。
そして、1600年9月15日の関ヶ原合戦の本戦では、寝返りを約束した小早川秀秋の軍監(目付)として、松尾山の小早川陣に派遣されていました。
ちなみに、黒田長政の家臣・大久保猪之助も小早川家の陣に入っています。

ようやく、小早川秀秋が寝返りを決意して、西軍・大谷吉継の陣を目がけて松尾山を降りた際に、小早川勢の先鋒であった松野主馬が、主君の裏切りに納得できず戦線を離脱します。

この時、奥平貞治は指揮官不在となった松野隊の兵を率いて、先陣として大谷吉継の右翼を攻撃したと言われています。

素直に評価すれば、奥平貞治は小早川秀秋が寝返って大谷勢への攻撃を開始した時点で、自分に与えられていた役割は充分に果たしていたはずです。
しかし、もっと早く寝返り行動させられなかった事を、悔やんだのか?、わざわざ先陣をきって敵中へと飛び込みました。
正直に申し上げますと、小早川秀秋が陣を置いた松尾山から、草鞋(わらじ)で麓まで降りるだけでも大変ですが、それ以上にも、積極的に戦ったものと存じます。
そう考えますと、徳川家康の勝利となるよう、その為だけに貢献したかったのだと感じました。




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大谷家の牧村三左衛門が、奥平貞治に傷を負わし、その日のうちに戦傷にて、奥平貞治は死去しました。
死去した場所は、玉村(関ヶ原の北西にある県境付近)とされますが、大谷吉継の陣があった山中村付近で討死したとも伝わります。

いずれにせよ、関ヶ原の東軍において、名のある武将で戦死した数少ない1人となっています。

子が居なかったので、徳川家康はこの忠義に報いるため、奥平貞治の生母へ供養料300石を、毎年支給したとされています。

その奥平貞治の墓が、まさに北国街道(北国脇往還)が貫く玉村の集落にあります。

奥平貞治の墓

ご子孫の奥平貞昭(奥平新左衛門源貞昭)が、江戸時代後期の1864年10月に建立したものです。
関ヶ原に東軍の子孫が建立した史跡としては、ここだけのようです。
その後、岐阜県不破古跡保存会により、横に碑が建てられています。
碑の裏には「秀秋軍監ノ死ヲ見テ諸将ト共二力戦シ遂二大ニ西軍ヲ破ル」と刻まれています。




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奥平貞治の墓

奥平貞治の墓がある場所は、下記の地図ポイント地点となります。
道路沿いではないので、道路から民家と民家の間を10mほど入った先となります。

付近には駐車場がありません。
道路も狭い集落の道路ですので、すぐ近くの路肩に止めますと、住民の方のご迷惑を掛けしてしまいます。
ずっと北の方にも行って見たのですが、道は狭いままでした。

そのため、今回訪問した際には、南東側の国道下の道路が幅が広く、スペース的にはレンタカーの軽自動車であれば、路肩に止めても大型消防車が通れる状況でした。
駐車禁止の道路でもないようでしたので、短時間だけ止めさせて頂き、訪問させて頂きました。
同じように止められる場合には、駐車禁止でないか確認の上、くれぐれも、大型緊急車両の通行を妨げるような止め方をせずに、数分の短時間だけに留めて頂きたく存じます。

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