松浦久信と松浦久信とは~2人とも関ヶ原に参陣したか?

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戦国武将に松浦久信(まつら-ひさのぶ)と言う大名がいる。

このページではその松浦久信をご紹介したいと思うが、同姓同名で別人として2人の松浦久信が同時期に活躍しているので、その2人の松浦久信をまとめてご紹介したい。

まずは、先に生まれたと推定される方の松浦久信から・・。




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伊勢・井生城主の松浦久信

便宜上、井生城主の松浦久信とここでは明記させて頂くが、この松浦久信は、通称、松浦安兵衛、別名は松浦秀任(ひでとう)、松浦伊予守久信とも言う。
もともとは和泉国の寺田村の寺田氏が出身で、元の名は寺田久信と言う名前であり、生年などは不明。




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岸和田城主・松浦信輝(松浦光、松浦肥前守光)の家臣であった従兄弟・寺田又右衛門と寺田安大夫の兄弟の推挙で、松浦信輝に仕えた。

1575年、寺田又右衛門(寺田正家)と寺田安太夫(松浦宗清)が、主君・松浦信輝を殺害し、岸和田城を乗っ取る。
この時、寺田氏はこぞって「松浦」に改姓したため、寺田久信も松浦久信と改名するに至った。

そのあと、松浦正家・松浦宗清・松浦久信らは織田信長に臣従し、本願寺顕如への攻撃にも参加。

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本能寺の変のあとは豊臣秀吉に合流して山崎の戦いで、松浦宗清・松浦久信は活躍する。

松浦正家(寺田又右衛門)の名は途中から見られなくなったため、死去したものと推測できるが、松浦宗清(寺田安太夫)と松浦久信は豊臣秀吉に気に入られて馬廻りとなった。

1584年、松浦宗清(寺田安太夫)は小牧・長久手の戦いでの戦功により、1585年伊勢・井生(いう)川口で1万石となり、井生城主となっている。

1590年の小田原攻めでは、松浦宗清は石田三成忍城攻めにも参戦。
松浦久信も宇都宮仕置などで名が見られ、戦後に伊勢・井生城主として1万石を授けられ、伊予守に任じられ従五位下に叙されている。
恐らくは、旧城主の松浦宗清が移封となり、その旧領が松浦久信に与えられたものと考えられる。

松浦久信(松浦伊予守久信)はのちに加増されて1万1000石となり、1592年の朝鮮攻めでは、松浦宗清と松浦久信の2人は豊臣秀吉の馬廻衆の一員として肥前・名護屋城に在陣した。
また、1594年には、2人とも伏見城の普請にも携わっている。

1600年、関ヶ原の戦いでは、2人で石田三成の西軍に加わり、伏見城の戦い安濃津城の戦いに参加。
しかし、立花宗茂らとの大津城の戦いにて、松浦久信は銃弾を受けて討死した。

松浦宗清の方は西軍の弓頭であったことから改易され、南部利直に預けられると1628年に病没したとされている。




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平戸藩主・松浦久信

平戸の松浦久信(まつら-ひさのぶ)は、平戸城主・松浦鎮信の嫡男として1571年に生まれた。通称は松浦源三郎。
母は西郷純隆の娘。

1586年頃に大村純忠の娘(松東院)を正室に迎えている。

1592年、朝鮮攻めでは、21歳の松浦久信も父・松浦鎮信と共に朝鮮へ渡り松浦家の全戦全勝に貢献した。
平安道では、敵の包囲を突破して父を救ったこともある。

1600年、関ヶ原の戦いの際には、大坂に滞在しており、石田三成に協力すると、伏見城攻めと伊勢・安濃津城攻めに参陣した。
しかし、国許の父・松浦鎮信が肥前・神集島で開かれた近隣諸将との会議にて徳川家康に味方すると決し、東軍に恭順を示した。
そのため、戦後に松浦久信(松浦肥前守久信)も処罰を受けることなく、松浦家は所領を安堵されている。

その後、父から家督を譲られたが、1602年、江戸城に赴く途中の伏見にて病に倒れ、8月29日に急死した。享年32。
一説には、西軍に付いた松浦久信に対しての暗殺説もある。 

家督は長男・松浦隆信が継いでいる。

ちなみに平戸の松浦家は、今上天皇の直系祖先となる。

以上、2人の松浦久信に焦点を当ててみたが、ともに「関ヶ原の戦い」では西軍についたと言う事になっており、伏見城の戦い、安濃津城の戦いに共に参陣している。
しかし、特に平戸城の松浦久信に関しては、関ヶ原での動向が良く分かっておらず、関ヶ原本戦では名が見られない事からその時にはすでに西軍から離脱していたものと考えられる。
とにかく資料が乏しく、上記の事くらいしか判明しないため、もし情報をお持ちの方がいれば、是非ご教授願えると嬉しく存ずる。

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