青木一矩と青木俊矩とは~秀頼の乳母となった宮内卿局も

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青木一矩

青木一矩(あおき-かずのり)は、戦国時代の武将で美濃国大野郡揖斐庄の住人・青木重矩(青木勘兵衛)の子として生まれたとされています。
生年は不明です。
母は、鍛冶職人とされる関兼貞(関兼員)の三女・大恩院となります。

この大恩院は、豊臣秀吉の母である「なか」(仲)の妹、すなわち大政所の妹と言う事になります。
また、大政所の晩年には、大恩院が侍女となって世話をしたようです。

青木紀伊守一矩は、青木秀以、青木重吉、青木秀政とまあ、色々と名前がありますが、もとは青木勘兵衛、または青木勘七と名乗っていたようです。

やがて、羽柴秀吉長浜城主となり、弟の羽柴秀長が補佐するようになると、藤堂高虎が仕官しています。
同じころ、青木一矩も羽柴秀長の家来となったようで、天正11年(1583年)には賤ヶ岳の戦いに参加しました。




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その後、長曾我部家への四国攻めのあと、1000石から1万石に加増されて、紀伊・入山城主となり、羽柴秀長の家中では筆頭家老となりました。

越前・大野城主の金森長近が、1585年に飛騨一国を与えられて鍋山城に移ったあと、青木一矩が代わりに入りますが、実際に越前に移ったのは1587年頃と推測され、この頃より豊臣秀吉の直臣となりました。
一時、播磨・立石城に転封となっていますが、再び越前に戻されると大野城8万石となっています。

1590年には、小田原攻めにも参陣したと言いますが、後方支援だったのか?、目立った行動は確認できません。

そして、その後、1592年には朝鮮攻めに従軍するため、1000名を率いて肥前・名護屋城に在陣しました。

越前・府中城12万石の木村重茲が、朝鮮攻めのあと、山城・淀城に転封となると、青木一矩は越前・府中城(10万石)に移封となりました。

越前・府中城

文禄3年(1594年)には、伏見城の普請分担に名前が見受けられます。

慶長2年(1597年)7月21日、従五位下侍従に叙任され豊臣姓を賜り、1598年8月に大阪城にて豊臣秀吉が死去すると、葬儀では従兄弟である福島正則と共に豊臣秀頼の名代を務めました。

五大老による豊臣政権が発足すると、豊臣秀吉遺命として1599年2月5日に、北ノ庄21万石に加増・転封となり、越前・北ノ庄城主となっています。
この時、青木紀伊守一矩の子とも、養子とも、甥ともされる青木俊矩は、豊臣家の馬廻衆から出世して、2万石にて越前・金剛院城主となりました。

金剛院城

青木俊矩の娘・宮内卿局(くないきょう-の-つぼね)は、木村重茲の正室となり、木村重武・木村重成をもうけましたが、夫と長男は豊臣秀次事件にて連座し自害となっててます。
この時、宮内卿局は子の木村重成と近江国坂田郡馬渕村に逃げるとのちに許されて、豊臣秀頼の乳母となりました。
同じく豊臣秀頼の乳母であった右京太夫局と同一人物とも考えられます。
そして、木村重成は豊臣秀頼の小姓となった訳です。

1600年、関ヶ原の戦いの際には大谷吉継らと石田三成に味方しましたが、青木一矩は病床にあったようで出陣はしておらず、徳川家康に味方した金沢城主・前田利長の抑えとして、北の庄城を固めました。

西軍が敗戦すると、越前に侵攻して北ノ庄に迫った前田利長に降伏したともありますが、10月10日(10月6日とも?)、青木一矩は病死しました。
なお、西軍ではなく、府中城の堀尾可晴と東軍に与したとする説もあります。




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青木俊矩

青木俊矩(あおき-としのり)は、前述したとおり、青木一矩の子、または青木矩貞の子ともされます。

同じく前田家に降伏すると、大津に連れられて前田利長の仲介にて徳川家康に謝罪しようとしましたが、面会してもらえず、結果的に改易(所領没収)となり、青木家の家督相続も認められませんでした。
その後、子の青木久矩と共に加賀・前田藩預りとなり、青木俊矩は不遇のうちに、1608年5月6日で没しています。

青木俊矩の長男・青木久矩(あおき-ひさのり)は、1614年、大坂の陣となると娘・宮内卿局がいる大阪城に入ります。
そして、木村重成の部隊に加わって武功を立てましたが、1615年、大坂夏の陣で討死しました。
その子孫の流れには、幕末の志士・橋本左内がいます。

弟の青木泰矩が加賀藩士となっており、末弟・青木昌矩が嫡男となって青木家を継いだとようです。
しかし、病弱のため隠棲すると、福井城主の結城秀康から府中新町に屋敷を与えられて「平吹屋」という屋号で、酒の醸造業を始めました。
大正時代に醸造業は廃業していますが、ご子孫は続いています。

以上、ざっと通説ではこのような形ですが、青木家に関しては諸説あることを最後に明記しておきます。

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