3分でわかる戦国武将

辰姫と石田重家・石田重成とは~石田三成の遺児らは関ヶ原の後どうなったのか?

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辰姫

辰姫(たつひめ)は、石田三成の3娘として1592年に生まれました。
生母は、正室・うた(皎月院、こうげついん)と考えられています。

慶長3年(1598年)頃だと推測されますが、豊臣秀吉が亡くなったあとに、豊臣秀吉の正室・北政所(高台院)の養女となりました。

1600年、関ケ原の戦いにて石田三成が徳川家康に敗れると、佐和山城は攻撃されて3日で落城。
石田三成も捕縛され、三条河原にて処刑されます。

そのため、北政所のもとにいた辰姫は、石田家とも親しかった津軽信建によって、兄・石田重成と乳母の父・津山甚内、そして辰姫らともに津軽へ逃されたとも言われています。
また、高台院が側近で、石田家とも縁戚であった孝蔵主に命じて、縁組の世話をしたとも言われていますので、津軽に来た時期は不透明です。

津軽信建の父・津軽為信は、関ケ原の際に東軍に従っていました。
しかし、津軽信建は、豊臣家への人質も兼ねて大阪城にて、豊臣秀頼の小姓を務めていたのです。
そして、石田三成が敗れたと言う知らせが届くと、小姓仲間だった石田重成と辰姫を連れて、津軽に赴いたと考えられています。

津軽信建は1607年に父・津軽為信が死去する直前に夭逝し、弟の津軽信枚が弘前城主となって跡を継ぎました。
いずれにせよ、辰姫(辰子)は、慶長15年(1610年)ごろに、弘前藩2代藩主・津軽信枚に嫁いだようです。

夫婦の仲はよかったようですが、天海の進言もあり、江戸幕府は、慶長18年(1613年)に、徳川家康の養女・満天姫(徳川家康の異父弟・松平康元の娘)を、津軽信枚に降嫁させました。
その結果、津軽家は、満天姫を正室として迎えるしかなく、辰姫は側室扱いとなっています。

そして、辰姫は弘前藩が関ヶ原の戦いの論功行賞として得ていた、飛び地である上野国の大舘(群馬県太田市)に移され、大舘御前と称されました。
しかし、夫婦仲は途切れなかったようで、藩主の津軽信枚は、参勤交代の折は必ず大舘に立ち寄り、辰姫とのひとときを過ごしています。
そして、元和5年(1619年)1月1日、津軽信枚の長男・平蔵(津軽信義)を辰姫が産みました。

その子の成長を見届ける途中となる、元和9年(1623年)に、辰姫(荘厳院)は大舘で死去しました。享年32。

墓所は群馬県太田市の東楊寺、青森県弘前市の貞昌寺にあります。

幼い平蔵は江戸の弘前藩邸に引き取られると、藩主・津軽信枚の強い意思にて嗣子とされ、3代藩主になっています。

石田重家

石田三成の長男・石田重家(いしだ-しげいえ)の母は正室・うた(皎月院)ですが生年は不詳です。
関ケ原の際に、豊臣家への人質として大阪城にいました。
実は、大谷吉継から、徳川家康に従って会津征伐に参じるように勧められたようですが、結局は、豊臣家の人質として大阪城に置かれたようです。
そのため、弟・石田重成と共に、9月19日夜、乳母と、その父・津山甚内によって、大阪城を密かに脱出し、京都・妙心寺の塔頭である寿聖院に入りました。
そして、住職の伯蒲慧稜によって剃髪し、仏門に入りました。
号は宗享です。

その後、和尚の伯蒲慧稜が、京都所司代・奥平信昌を通じて、徳川家に助命を嘆願します。
徳川家康は本多正信と協議した結果、石田重家はまだ10代前半と若かったことから、命は許しました。

そして、元和9年(1623年)に宗享は寿聖院三世となっています。
のち、春日局の側近として大奥で仕えた祖心尼にも、禅を教えたと言われています。
石田重家は、貞享3年(1686年)閏3月8日に亡くなったとされていますが、一説によると享年104ともされています。

石田重成

一方、石田三成の次男・石田重成(いしだ-しげなり)の母は正室・うた(皎月院)で、1599年から大阪城にて豊臣秀頼の小姓となりました。
生年は不明ですが、関ケ原のときは12歳だったともされます。

上記の辰姫にてご紹介したとおり、同じ小姓だった津軽信建の助けにて、乳母の父・津山甚内らと共に津軽へと逃れました。

津軽では、石田の名を捨てて杉山源吾(杉山八兵衛)と称し、深味村(現・板柳町)にて隠棲したと言いますが、津軽家が保護しており、のち藩士となった模様です。

正室は、朽木氏の娘で、継室は柘植氏の娘とありますが、長男・杉山吉成は、弘前藩主・津軽信枚の娘を妻として迎えており、1300石にて津軽藩の家老となると、以後、杉山家は代々、弘前藩の重臣として続きました。
のちの蝦夷地でのシャクシャインの戦いにも、侍大将として杉山氏は赴いておりき、活躍しています。

石田重成の没年は1641年に53歳にて死去した説が有力です。

江戸時代に豊臣姓を名乗るが許されたのは、豊臣秀吉の正室・北政所の実家である、日出城主の木下家だけでしたが、杉山家の菩提寺は宗徳寺(青森県弘前市)にある、石田重成からの杉山家の代々の墓にはすべてに「豊臣」の姓が刻まれています。

また、弘前市にある革秀寺(かくしゅうじ)の霊屋(たまや)では、石田重成がもたらしたとされる「秀吉像」が安置されています。

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