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尼子氏の衰退と大内氏の出雲遠征
尼子氏の衰退
1540年(天文9年)
出雲国主・尼子晴久(詮久)は、反尼子氏という姿勢を明確にした安芸の国人領主・毛利元就を討つべく安芸(吉田郡山城)に侵攻した。
1541年(天文10年)
尼子軍は長引く攻城戦で苦戦を余儀なくされ、毛利軍の陽動作戦と援軍(大内軍)の挟撃によって大敗してしまう。
尼子晴久(詮久)は、僅かな供回りと命からがら出雲に逃げ帰ることが出来たが、大敗したことを知るや安芸国、備後国の国人衆が次々と大内氏へ寝返ってしまった。
また、寝返った国人衆からは「尼子氏が勢力を回復する前に討伐してほしい。」との内容を綴った連署状が大内氏の元へ届けられた。
これには、尼子氏との合戦で手柄を立てることで、大内氏に認めてもらいたいという国人衆の本音があったと思われる。
1541年(天文10年)
尼子経久は、孫・尼子晴久(詮久)へ家督を譲っていたが、その後も大きな影響力を持ち続けていた。
その尼子経久が亡くなったことで、尼子氏の弱体化に拍車がかかるが、大内氏には絶好の機会が訪れることになった。
大内義隆は、周防国・山口の大内氏館に家臣を集めると出雲遠征に向けての軍議を開いた。
軍議では、陶隆房を中心とした武断派は出雲遠征に賛成し、相良武任、冷泉隆豊らの文治派は慎重論を唱えた。
意見が完全に分かれてしまったことで軍議は紛糾するが、大内義隆の中では出雲遠征に気持ちが傾いていた。
また、大内家中において陶隆房が強い発言権を持っていたことも出雲遠征の後押しに繋がった。
出雲遠征が決定すると出陣に向けての準備が進められた。
大内氏の出雲遠征
1542年(天文11年)1月1日
総大将・大内義隆は、1万5千の兵を率いて出雲(月山富田城)へと出陣した。
大内軍には、陶隆房、内藤興盛、冷泉隆豊など大内家重臣だけでなく、養嗣子・大内春持も含まれていた。
大内義隆にとっての出雲遠征は、尼子氏を難なく討伐して西国最大の守護大名になるという前提があった。
1542年(天文11年)1月19日
途中、厳島神社で戦勝祈願をした大内義隆。
再び進軍を開始すると安芸国で毛利元就、吉川興経、小早川正平、備後国で山名理興、石見国で益田藤兼など大内方の国人衆と合流し、出雲遠征軍は総勢4万5千の大軍となった。
赤穴城攻略
4月に出雲に入った大内軍。
6月に出雲・備後・石見の境に位置し、出雲にとって南の防壁の役割を果たす重要拠点の赤穴城の攻撃を開始したが、予想外の展開となっていく。
赤穴城攻撃は、先陣として毛利家の家臣・熊谷直続が務めるが、赤穴光清の手勢に討ち取られてしまった。
赤穴城は堅固な要害だけでなく、この戦に向けて月山富田城からの援軍で兵力を増強して大内軍を待ち構えていたのだ。
そのため、城内に籠る兵の士気は高く、大内軍の攻撃に対して崩落するような気配は見られなかった。
1542年(天文11年)7月27日
攻城戦から2か月近く経つが、赤穴城を攻め落とせないでいた大内義隆。
決着を着けるべく陶隆房、吉川興経、平賀隆宗らに赤穴城への総攻撃を命じた。
しかし、赤穴城の頑強な守りに苦戦を強いられた。
そのため、一旦兵を退かせようとしたが、陶隆房らが兵を退かせることを拒否。
夕刻まで戦い続けた結果、数百人の兵が討ち取られてしまった。
赤穴城方の奮戦により士気は落ちることなく、戦況は赤穴城方の優勢が続くかと思われた。
しかし、城主・赤穴光清が流れ矢に当たって討ち死にしてしまったことで状況が一変した。
突然城主が亡くなくなったことで、城内の統率が取れず勢いを失ってしまったのだ。
赤穴城側から赤穴光清の妻子の助命するという条件が提出され開城となった。
赤穴城の落城まで2か月を要し、周防国・山口を出陣してから半年以上も経過していた。
凱旋を兼ねた出雲遠征という思惑が、大内義隆の中で少しずつ狂い始めていた。
月山富田城攻撃
月山富田城とは
1396年~1566年まで尼子氏の本拠地となった難攻不落の山城で天空の城とも呼ばれている。
月山(吐月峰)の山上に本丸をおく山城で、三方が急峻な斜面で北面を正面とした複郭式山城と呼ばれる構造となっている。
進入路は、菅谷口からの大手道、御子守口からの搦手道、塩谷口からの裏手道の3か所あり、いずれの進入路も山腹にある城主の居所・山中御殿に通じている。
また、そこからは詰めの城である山頂部へと結ばれている。
山中御殿の入り口には、現存してないが巨大な大手門があったと推測され、城への登り口には城門が構えられ、門外は深い堀と飯梨川によって外郭をなしている。
山頂の本丸に辿りつくまでには、山腹の山中御殿平から山頂へ続く「七曲り」と呼ばれる急峻な道を登ることになる。
ここを登りきると、城の西方を監視するための櫓があったとされる「袖ヶ平」に辿り着く。
三の丸は袖ヶ平の一段上に位置し、その奥に二の丸がある。
山頂部の一番奥に「甲の丸」と呼ばれる本丸があり、二の丸からの進入路は深い堀切で仕切られている。
城攻め
1542年(天文11年)10月
三刀屋峰に本陣を構えた大内軍。
翌年1月には、本陣を宍戸の畦地山へ移動して月山富田城攻撃に備えた。
畦地山で開かれた軍議において、陶隆房と毛利元就の意見が真っ向から食い違うことになる。
陶隆房は、出雲遠征の遅れと大内軍の力を誇示するために総攻撃による力攻めを主張。
一方の毛利元就は、尼子氏は吉田郡山城で大敗したが、これまでの尼子氏の勢いを考えれば兵力を十分に温存していることも考えられる。まずは、周辺の国人領主への調略を進めて兵糧を断ち、尼子氏を孤立させてから攻めるべきとの慎重論を主張した。
軍議は平行線のまま紛糾するが、家格の違いなどで陶隆房の主張が最終的に採用されることとなった。
1543年(天文12年)2月
大内義隆は、決戦に向けて月山富田城が見下ろせる京羅木山に本陣を移した。
大内軍の総勢は約4万5千、対する尼子軍は1万5千。
両軍は、月山富田城近くを流れる富田川を挟んで対峙することとなった。
攻撃を開始した大内軍は、当初は圧倒的な兵力で有利に進めていたが、日が経つにつれて赤穴城攻めのような長期戦の様相を呈してきた。
1543年(天文12年)3月
毛利軍は、菅谷口付近にて尼子軍5百と交戦するが、遭えなく撃退されてしまった。
また、大内方の益田藤兼、平賀隆宗の軍勢も尼子誠久率いる新宮党との交戦となり、一進一退の戦いとなるも最終的に尼子軍が勝利した。
4月に入ると、毛利元就らの軍勢が塩谷口で再び尼子軍と交戦するが、またも敗北してしまった。
日が経つにつれて難航する攻城戦だけでなく、兵站補給路も断たれたことで慢性的な兵糧不足となり士気を落としていく大内軍。
さらに、追い打ちをかけるように大内軍に見切りをつけた国人領主・吉川興経、三刀屋久扶、三沢為清、本城常光などが次々と尼子方へ寝返ったことで、大内軍の劣勢は明確なものとなった。
撤退とその後
1543年(天文12年)5月7日
充分な兵糧が確保できず、寝返る国人衆も相次いだため、総崩れ前に撤退を決めた大内義隆。
退路を断たれることを恐れ、隊ごとに別経路で撤退することで追撃を拡散させようとした。
海路からの撤退を選択した養嗣子・大内春持は、用意していた船に乗り込むことが出来たが、尼子軍の追撃に混乱した兵が殺到して乗り込んできたため転覆して溺死してしまう。
殿を務めたのは毛利元就。
毛利元就、隆元の親子は、尼子軍から必死に逃げるが、出雲と石見の境界にある石見大江坂七曲で追いつかれてしまう。
毛利軍は絶体絶命の状況に見舞われたが、毛利親子を逃がすため家臣・渡辺通が毛利元就の甲冑を着て身代わりとなり、他の将兵も囮として尼子軍と戦って討死していった。
毛利親子が吉田郡山城に辿り着くことが出来たのは、渡辺通を始めとした家臣たちの献身の賜物と言えた。
毛利元就は、後に渡辺通の献身の礼として、毛利家の甲冑開きを子孫に任せるようになった。
また、この話を後世まで語り継がせた。
山内義隆は、石見路を経由して周防国・山口まで命からがら逃れることができた。
大内軍は、この敗北によって養嗣子・大内晴持を始め多数の戦死者を出すという厳しい結果となった。
また、武断派の意見を受け入れたことで大敗を喫した大内義隆は、文治派の相良武仁らの意見を重用するようになる。
これが武断派と文治派の対立を激化させる引き金となってしまった。
山内義隆にとって敗北以上の衝撃は、溺愛していた養嗣子・大内晴持を失ったことで落ち込みは相当なものだった。
意気消沈した大内義隆は、政治や戦への関心を失い、公家方との遊びに耽るようになったため、大内家は衰退の一途を辿ることとなる。
今後の大内家を案じた陶晴房は、後に大内家に反旗を翻すと大内義隆を自害に追い込んで大内家を乗っ取った。
一方の尼子氏は、勢力拡大を続け最盛期を迎えることとなった。
(寄稿)まさざね君
・第二次月山富田城の戦いの解説~毛利元就の中国地方統一と尼子氏の滅亡
・吉田郡山城の戦いの解説~陽動作戦で敵軍を錯乱した毛利元就の作戦
・人取橋の戦いの解説「独眼竜・伊達政宗」伊達軍壊滅の危機
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