関ヶ原の石田勢(西軍)に関連する(まつわる)史跡・観光スポットなど
島津豊久とは~軍法戦術に妙を得たりと評された名将が眠る島津豊久の墓
島津豊久とは関ヶ原の戦いにて有名な「島津の退き口」を演じ、島津義弘らを逃がすために、自ら殿を務めて討死した「島津豊久」の墓が、関ヶ原から車で20~30分ほど南下した、裏伊勢街道沿いにあります。まずは、その島津豊久とはどのような武将だったのか...
関ヶ原の石田勢(西軍)に関連する(まつわる)史跡・観光スポットなど
島津豊久とは関ヶ原の戦いにて有名な「島津の退き口」を演じ、島津義弘らを逃がすために、自ら殿を務めて討死した「島津豊久」の墓が、関ヶ原から車で20~30分ほど南下した、裏伊勢街道沿いにあります。まずは、その島津豊久とはどのような武将だったのか...
阿多長寿院盛淳とは長寿院盛淳(ちょうじゅいん-もりあつ)は、阿多盛淳、阿多長寿院盛淳とも呼ばれますが、阿多と言うのは子孫が阿他氏を称したからとなります。長寿院盛淳は、もともと室町幕府の管領の1つである畠山氏の分家出身という事で、1548年?...
大垣城の歴史大垣城(おおがきじょう)は連郭輪郭複合式平城で、最盛期の規模は現在の敷地の広さからは想像もできない、4重にも水堀を巡らした総構えの城だったようです。大垣城の別名は麋城(びじょう)、巨鹿城(きょろくじょう)とも、牛屋城とも呼ばれま...
関ヶ原の戦いの際、大谷吉継陣跡よりも、敵の東軍を先だって迎え撃つような形で布陣したのが、平塚為広(ひらつか-ためひろ)です。平塚家は、相模・岡崎城を本拠地にもした、もともと相模の名門・三浦氏の氏族で、三浦為高が平塚郷(神奈川県平塚市)を領地...
しかし、スゴイところに陣地を構えたものです。毛利秀元は・・。と言う事で、南宮山(なんぐうさん)にある毛利秀元の陣跡を訪問して参りました。関ヶ原の戦いの際に、毛利秀元が陣を置いた場所は、岐阜県垂井町にある南宮大社から山登りとなります。まずは、...
関ヶ原の戦いにおいて、毛利家は石田三成の要請に応じ、大阪城に参じます。そして、毛利輝元が西軍の総大将となりました。当然、毛利家の親族である吉川家、小早川家は毛利本家に従い兵を大阪に出します。このように毛利家を支えていた吉川広家は、吉川元春の...
長束正家陣跡は、南宮山の麓となる垂井町栗原集落にあります。長束正家は水口城主12万石で、豊臣政権では石田三成らと共に、五奉行の1人として主に財政を担当していました。1600年、石田三成が五大老の毛利輝元を擁立し、関ヶ原の戦いとなると長束正家...
岐阜県養老町であった金屋川原の戦いは、1600年9月15日、天下分け目の「関ヶ原の戦い」となった際に、戦わずして戦線離脱を図った長宗我部盛親らの部隊が戦闘状態となった合戦です。西軍として南宮山にて布陣するも戦わずにいた長曽我部盛親らは、石田...
長宗我部盛親の陣跡(長宗我部盛親陣址)は、垂井町栗原にあります。約6000の兵にて栗原山麓に陣を置きました。長宗我部盛親は、長宗我部元親の4男となります。長宗我部元親は1599年5月に死去しており、その後を長宗我部盛親が継いでいました。長宗...
関ケ原ウォーランド関ケ原ウォーランド(せきがはらウォーランド)は、約3万平方メートルの敷地に、関ヶ原の戦いにて活躍した戦国武将が所狭しと展示されており、さながら「関ヶ原合戦」が再現されている、野外博物館です。お城の「門」の形をした入口を入る...
宇土城主で20万石の小西行長は、そもそも徳川家康に接近しており、会津征伐の際には大阪に残留するように命じられていました。しかし、石田三成が挙兵すると聞くと、それに応じて西軍に加わったのです。1600年9月15日、関ヶ原の戦いでは6000を率...
1600年9月15日の朝、前日夜の雨により、関ヶ原一帯は濃い霧に包まれていましたが、朝8時頃になると、徐々にキリがはれてきたと言います。そんな中、先陣の福島正則の脇を、井伊直政と松平忠吉の部隊が進み出ました。福島隊に陣借りしていた可児才蔵が...