垂井町や大垣市など関ヶ原近郊のお勧め観光スポット
島津豊久とは~軍法戦術に妙を得たりと評された名将が眠る島津豊久の墓
島津豊久とは関ヶ原の戦いにて有名な「島津の退き口」を演じ、島津義弘らを逃がすために、自ら殿を務めて討死した「島津豊久」の墓が、関ヶ原から車で20~30分ほど南下した、裏伊勢街道沿いにあります。まずは、その島津豊久とはどのような武将だったのか...
垂井町や大垣市など関ヶ原近郊のお勧め観光スポット
島津豊久とは関ヶ原の戦いにて有名な「島津の退き口」を演じ、島津義弘らを逃がすために、自ら殿を務めて討死した「島津豊久」の墓が、関ヶ原から車で20~30分ほど南下した、裏伊勢街道沿いにあります。まずは、その島津豊久とはどのような武将だったのか...
阿多長寿院盛淳とは長寿院盛淳(ちょうじゅいん-もりあつ)は、阿多盛淳、阿多長寿院盛淳とも呼ばれますが、阿多と言うのは子孫が阿他氏を称したからとなります。長寿院盛淳は、もともと室町幕府の管領の1つである畠山氏の分家出身という事で、1548年?...
このページでは、私が実際に「関ヶ原」の史跡巡りを行った際の行程や観光所要時間情報などを残しておきたいと存じます。まず、今回、関ヶ原は2016年4月の「平日2日間」の行程で計画し、訪問させて頂きましたことをご報告申し上げます。東海道新幹線で岐...
お茶屋屋敷とは1600年、関ヶ原の戦いにて勝利し、天下を掌握した徳川家康は、全国に主要街道の整備を行った。やがて江戸幕府を開き、1609年に徳川家康が江戸城から上洛する際に、中山道の要衝であり、徳川家が関ヶ原で勝利すると言う「開運の地」とも...
杭瀬川の戦い杭瀬川の戦い(くいせがわのたたかい)は、関ヶ原の戦い(9月15日)の前哨戦となった1600年9月14日に発生した合戦です。9月14日のお昼頃に、徳川家康は3万とも言われる大軍を率いて美濃家坂に着陣します。この時、井伊直政・本多忠...
大垣城の歴史大垣城(おおがきじょう)は連郭輪郭複合式平城で、最盛期の規模は現在の敷地の広さからは想像もできない、4重にも水堀を巡らした総構えの城だったようです。大垣城の別名は麋城(びじょう)、巨鹿城(きょろくじょう)とも、牛屋城とも呼ばれま...
垂井の明泉寺は、天才軍師・竹中半兵衛を生みだした、岩手・竹中家の菩提寺です。明泉寺はのち竹中家を称することになる初代・岩手重氏が建立したと伝わる寺です。代々、岩手家(竹中家)の一族が、現在でも住職を世襲しておられます。実は、この明泉寺の本堂...
竹中氏陣屋とは竹中氏陣屋(たけなかしじんや)は、垂井町岩手にある竹中家の先祖伝来の地です。戦国時代には「岩手城」と呼ばれ、背後にある菩提山城が詰めの城と言う事になりましたが、竹中半兵衛までは菩提山城を居城としていました。竹中氏陣屋を築城した...
1578年、荒木村重が織田信長に謀反を起こした「有岡城の戦い」の際に、黒田官兵衛は単身で有岡城に乗り込み、荒木村重を説得しようとします。しかし、黒田官兵衛は捕えられて、土牢に閉じ込められてしまい、戻って来ない黒田官兵衛も寝返ったと織田信長は...
関ヶ原の戦いにて、西軍の大谷吉継と共に奮戦した平塚為広の居城は、関ヶ原町から隣にある垂井町の中心部にあります。この垂井の専精寺付近も湧水が豊かな地であり、旧中山道も通っており、その街並みはいかにも古く素晴らしいです。水が沸くところには人が集...
安国寺恵瓊の陣跡と、毛利秀元の陣跡の入口となる「南宮大社」(なんぐうたいしゃ)は、金山彦神(かなやまひこのかみ)を祀る鉱山の神様として信仰されています。創建はかなり古いと考えられ、平安時代には美濃の一宮となっています。南宮大社の鳥居は、東海...
岐阜県養老町であった金屋川原の戦いは、1600年9月15日、天下分け目の「関ヶ原の戦い」となった際に、戦わずして戦線離脱を図った長宗我部盛親らの部隊が戦闘状態となった合戦です。西軍として南宮山にて布陣するも戦わずにいた長曽我部盛親らは、石田...