禅幢寺~名参謀「竹中半兵衛」が眠る竹中氏の菩提寺【垂井の史跡】
岩手・禅幢寺は竹中氏と竹中家臣の菩提寺で、竹中氏陣屋から北へ進み、JR東海道本線のカードを抜けた先にあります。禅幢寺は「ぜんとうじ」と読みますが、創建は1494年で、薩摩・金幢寺の僧正碩和尚が開祖との事です。竹中半兵衛は結核(肺炎?)を患い...
岩手・禅幢寺は竹中氏と竹中家臣の菩提寺で、竹中氏陣屋から北へ進み、JR東海道本線のカードを抜けた先にあります。禅幢寺は「ぜんとうじ」と読みますが、創建は1494年で、薩摩・金幢寺の僧正碩和尚が開祖との事です。竹中半兵衛は結核(肺炎?)を患い...
垂井の明泉寺は、天才軍師・竹中半兵衛を生みだした、岩手・竹中家の菩提寺です。明泉寺はのち竹中家を称することになる初代・岩手重氏が建立したと伝わる寺です。代々、岩手家(竹中家)の一族が、現在でも住職を世襲しておられます。実は、この明泉寺の本堂...
竹中氏陣屋とは竹中氏陣屋(たけなかしじんや)は、垂井町岩手にある竹中家の先祖伝来の地です。戦国時代には「岩手城」と呼ばれ、背後にある菩提山城が詰めの城と言う事になりましたが、竹中半兵衛までは菩提山城を居城としていました。竹中氏陣屋を築城した...
1578年、荒木村重が織田信長に謀反を起こした「有岡城の戦い」の際に、黒田官兵衛は単身で有岡城に乗り込み、荒木村重を説得しようとします。しかし、黒田官兵衛は捕えられて、土牢に閉じ込められてしまい、戻って来ない黒田官兵衛も寝返ったと織田信長は...
関ヶ原の戦いにて、西軍の大谷吉継と共に奮戦した平塚為広の居城は、関ヶ原町から隣にある垂井町の中心部にあります。この垂井の専精寺付近も湧水が豊かな地であり、旧中山道も通っており、その街並みはいかにも古く素晴らしいです。水が沸くところには人が集...
今回、関ヶ原の戦いにおける史跡を2日間で周っている際、長宗我部元親の陣跡へと向かっている養老町橋爪の途中で、なにやら「石碑」があるな?と、目にとまった次第です。石碑には「丸毛兵庫頭・稲葉備中守等奮戦の地」と掘られています。当然、予定外である...
安国寺恵瓊の陣跡と、毛利秀元の陣跡の入口となる「南宮大社」(なんぐうたいしゃ)は、金山彦神(かなやまひこのかみ)を祀る鉱山の神様として信仰されています。創建はかなり古いと考えられ、平安時代には美濃の一宮となっています。南宮大社の鳥居は、東海...
しかし、スゴイところに陣地を構えたものです。毛利秀元は・・。と言う事で、南宮山(なんぐうさん)にある毛利秀元の陣跡を訪問して参りました。関ヶ原の戦いの際に、毛利秀元が陣を置いた場所は、岐阜県垂井町にある南宮大社から山登りとなります。まずは、...
関ヶ原の戦いにおいて、毛利家は石田三成の要請に応じ、大阪城に参じます。そして、毛利輝元が西軍の総大将となりました。当然、毛利家の親族である吉川家、小早川家は毛利本家に従い兵を大阪に出します。このように毛利家を支えていた吉川広家は、吉川元春の...
長束正家陣跡は、南宮山の麓となる垂井町栗原集落にあります。長束正家は水口城主12万石で、豊臣政権では石田三成らと共に、五奉行の1人として主に財政を担当していました。1600年、石田三成が五大老の毛利輝元を擁立し、関ヶ原の戦いとなると長束正家...
岐阜県養老町であった金屋川原の戦いは、1600年9月15日、天下分け目の「関ヶ原の戦い」となった際に、戦わずして戦線離脱を図った長宗我部盛親らの部隊が戦闘状態となった合戦です。西軍として南宮山にて布陣するも戦わずにいた長曽我部盛親らは、石田...
長宗我部盛親の陣跡(長宗我部盛親陣址)は、垂井町栗原にあります。約6000の兵にて栗原山麓に陣を置きました。長宗我部盛親は、長宗我部元親の4男となります。長宗我部元親は1599年5月に死去しており、その後を長宗我部盛親が継いでいました。長宗...