池田輝政陣跡~安王・春王の墓と共にある貴重な戦国史跡【垂井町の関ヶ原合戦史跡】
池田輝政は三河・吉田城主15万2000石で、正室は徳川家康の娘・督姫です。吉田城も督姫も、豊臣秀吉のお蔭と言う事ですが、石田三成と対立し、関ヶ原の戦いでは徳川家康に従いました。岐阜城攻めでは福島正則と共に先陣を務めて戦功を挙げています。関ヶ...
池田輝政は三河・吉田城主15万2000石で、正室は徳川家康の娘・督姫です。吉田城も督姫も、豊臣秀吉のお蔭と言う事ですが、石田三成と対立し、関ヶ原の戦いでは徳川家康に従いました。岐阜城攻めでは福島正則と共に先陣を務めて戦功を挙げています。関ヶ...
山内一豊陣跡は、徳川家康が最初に本陣を置いた「桃配山」からもほど近い、旧中山道沿いにあります。この旧中山道、ちょっと古い集落も街道沿いに残っており、非常に趣がありますので、自転車や徒歩でゆっくりと訪ねて見たくなるところです。山内一豊の陣跡が...
関ヶ原の戦いの際に、徳川家康が最初に本陣を置いた場所は「桃配山」となります。現在、桃配山(ももくばりやま)にある「徳川家康最初陣跡」は国史跡に指定されており、国道21号沿いの階段を登って2分ほどの山腹にあります。1600年9月14日の夜、西...
関ヶ原の戦いにて、徳川家康が最後に本陣を置いた場所は、現在、陣場野公園となっており、その公園の「北西」に「徳川家康最後陣跡」があります。関ヶ原の戦いが始まる前、大垣の岡山本陣から転進してきた徳川家康は「桃配山」に本陣を置きました。1600年...
田中吉政の陣跡は、他の陣跡史跡と異なり、道路の交差点にあり、田中吉政陣跡の小さな敷地が、道路で囲まれているような感じになっています。田中吉政と言う武将は、豊臣秀次の筆頭家老でしたが、豊臣秀次の切腹事件では、お咎めなく、10万石で三河・岡崎城...
関ケ原町歴史民俗資料館が関ヶ原町役場の近くにあり、関ヶ原の戦いにおける観光の拠点にもなっています。そもそも関ヶ原の戦いに詳しくない場合には、関ケ原町歴史民俗資料館の展示物を見学し、散策マップなどをもらってから出掛けるのがペストと言えるでしょ...
JR関ヶ原駅から歩いても5分ほどの近い関ヶ原の戦い史跡が「東首塚」「井伊直政・松平忠吉陣跡」となります。東海道本線の線路わきに、スタジイの大木が茂った場所があります。徳川家康が床几場で首実検をし、命を受けた関ヶ原の領主・竹中重門が、塚を設け...
岡山烽火場とは国指定史跡の岡山烽火場(丸山)は、関ヶ原の戦いの際に、黒田長政と竹中重門が陣を置いた小高い丘です。良い場所は先に西軍が布陣してしまいましたのでね、東軍で小高い場所に陣を置けたのは、徳川家康の桃配山と、ここ岡山(丸山)くらいです...
関ケ原ウォーランド関ケ原ウォーランド(せきがはらウォーランド)は、約3万平方メートルの敷地に、関ヶ原の戦いにて活躍した戦国武将が所狭しと展示されており、さながら「関ヶ原合戦」が再現されている、野外博物館です。お城の「門」の形をした入口を入る...
宇土城主で20万石の小西行長は、そもそも徳川家康に接近しており、会津征伐の際には大阪に残留するように命じられていました。しかし、石田三成が挙兵すると聞くと、それに応じて西軍に加わったのです。1600年9月15日、関ヶ原の戦いでは6000を率...
1600年9月15日の朝、前日夜の雨により、関ヶ原一帯は濃い霧に包まれていましたが、朝8時頃になると、徐々にキリがはれてきたと言います。そんな中、先陣の福島正則の脇を、井伊直政と松平忠吉の部隊が進み出ました。福島隊に陣借りしていた可児才蔵が...
宇喜多秀家陣跡とは戦国時代の1600年、関ヶ原の戦いにおける本戦では、西軍最大の17000と言う兵力を誇り、満を持して南天満山付近に布陣したのが宇喜多秀家です。西軍は大阪城に留まった毛利輝元が総大将でしたが、西軍の副大将は宇喜多秀家(28歳...