岡山烽火場(丸山)黒田長政・竹中重門の陣跡~関ヶ原がキレイに見える展望地
国指定史跡の岡山烽火場(丸山)は、黒田長政と竹中重門が陣を置いた小高い丘です。良い場所は先に西軍が布陣してしまいましたのでね、東軍で小高い場所に陣を置けたのは、徳川家康の桃配山と、ここ岡山(丸山)くらいです。と言う事で、東軍の陣跡で、関ヶ原...
関ヶ原町の観光スポット
国指定史跡の岡山烽火場(丸山)は、黒田長政と竹中重門が陣を置いた小高い丘です。良い場所は先に西軍が布陣してしまいましたのでね、東軍で小高い場所に陣を置けたのは、徳川家康の桃配山と、ここ岡山(丸山)くらいです。と言う事で、東軍の陣跡で、関ヶ原...
関ケ原ウォーランド(せきがはらウォーランド)は、約3万平方メートルの敷地に、関ヶ原の戦いにて活躍した戦国武将が所狭しと展示されており、さながら「関ヶ原合戦」が再現されている、野外博物館です。お城の「門」の形をした入口を入ると、シュールな風景...
宇土城主で20万石の小西行長は、そもそも徳川家康に接近しており、会津征伐の際には大阪に残留するように命じられていました。しかし、石田三成が挙兵すると聞くと、それに応じて西軍に加わったのです。1600年9月15日、関ヶ原の戦いでは6000を率...
1600年9月15日の朝、前日夜の雨により、関ヶ原一帯は濃い霧に包まれていましたが、朝8時頃になると、徐々にキリがはれてきたと言います。そんな中、先陣の福島正則の脇を、井伊直政と松平忠吉の部隊が進み出ました。福島隊に陣借りしていた可児才蔵が...
1600年、関ヶ原の戦いにおける本戦では、西軍最大の17000と言う兵力を誇り、満を持して南天満山付近に布陣したのが宇喜多秀家です。西軍は大阪城に留まった毛利輝元が総大将でしたが、西軍の副大将は宇喜多秀家(28歳)で関ヶ原にも参じました。宇...
関ヶ原の戦いの際の、福島正則の陣跡は、松尾・春日神社の境内にあります。福島正則は、加藤清正、細川忠興らと共に豊臣秀吉から可愛がれた子飼いの豊臣恩顧武将ですが武断派です。その為、文治派(文吏派)である石田三成、小西行長らとは反りが合わず、福島...
1600年、関ヶ原の戦いの際、藤堂高虎と藤堂高吉、京極高知は、福島正則隊に続いて東軍左翼縦隊の第2陣として、中山道からちょっと南にある柴井地区に陣を構えました。蜂須賀豊雄は藤堂勢、落合新八は京極高知に従っています。開戦となると、藤堂髙虎と京...
関ヶ原の戦いにて命を落とし、露と消えた戦死者は、6000とも8000とも言われますが、その多くは西軍として戦った将兵です。埋葬・供養を担当したのは、東軍として加わっており、この関ヶ原も所領としていた竹中重門です。徳川家康より見舞料(供養料)...
関ヶ原の戦いは、東軍・西軍合わせて15万とも言われる、規模の大きな合戦でした。簡単に申し上げますと、関ヶ原のあちこちで、生き残りをかけた壮絶な戦いが繰り広げられた訳ですが、その中でも最大の激戦となった場所が、ここ「関ヶ原の決戦地」だとされて...
奥平貞治(おくだいら-さだのぶ)は、兄・奥平貞能と共に徳川家康に従い、三河・長篠城を500にて守備していました。1575年5月に武田勝頼が15000にて長篠城を包囲し「長篠の戦い」となった際にも、大軍を相手に激戦の中、長篠城を守り切った武将...
関ヶ原の戦いで、東軍の「軍監」を任された本多忠勝は、現在の関ヶ原駅から南側となる「十九女池」の西側付近に陣を張りました。その地とされる公門第ニ公民館と民家の脇には「本多忠勝陣跡」の石碑があります。道路も狭いのですが、史跡への入口も狭く、下記...
ナポレオン戦争のワーテルローの戦い(ベルギー)、アメリカ南北戦争のゲティズバーグの戦いと共に、2014年からは「世界三大古戦場」として名乗りも上げ、歴史ある観光地として更に本格的な活動を開始している関ヶ原町ですが、JR関ヶ原駅前にあった観光...