関ヶ原の西首塚~西軍の亡骸を供養した供養塔【関ヶ原の史跡】

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関ヶ原の戦いにて命を落とし、露と消えた戦死者は、6000とも8000とも言われますが、その多くは西軍として戦った将兵です。

埋葬・供養を担当したのは、東軍として加わっており、この関ヶ原も所領としていた竹中重門です。
徳川家康より見舞料(供養料)として1000石の米を渡されました。

国史跡にもなっている西首塚(にしくびづか)の「供養塔」としては、十一面千手観世音と馬頭観世音が建立されていますが、のち江戸時代になってから追加奉納されたものと推測致します。

現在の西首塚がある「供養塔」のちょっと北側には、現在JR東海道本線が通っていますが、1899年(明治32年)に勾配緩和新線の新設工事を行った際に、五輪塔などの墓石や多数の白骨などが出たとの記録もあるようですので、合戦後に埋葬した際は、現在の場所だけでなく、もう少し広範囲となったようです。




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ちなみに、明治16年に、官設鉄道として関ヶ原~長浜間が開通した時には、笹尾山の方向へ線路が向かって、大野木交差点付近に「春照駅」そして、姉川の戦いがあった姉川手前の「上坂」から長浜駅に通じるのが旧東海道線のルートだったようです。
恐らくは、現在の国道365号が、ほぼ線路跡だと推測致します。
このルートに沿った北国街道は、1583年の「美濃大返し」として、大垣城にいた羽柴秀吉(豊臣秀吉)が、賤ヶ岳まで約52kmを僅か5時間で駆け抜けた経路の一部でもあります。

明治33年に近江長岡から柏原を経由した新線(現在の東海道本線)が開通したと言う事になります。

なお、この「西首塚」は、別名「胴塚」とも呼ばれますが、東軍の塚としては、関ヶ原駅近くに「東首塚」があります。
また、関ヶ原合戦も末端の兵ともなると、実際問題、西軍兵だったのかそれとも東軍だったのか、良く分からなかったとも伝わるようです。
そのような事もあり、東首塚が首塚で、西首塚が胴塚なのではとする説もあります。

なお、西首塚の供養塔の裏には、古い墓石がいくつも置かれていました。

西首塚(供養塔)

いずれにせよ、このように丁重に葬られ、現在でも地元の方々が大切に供養をなさっておられます。
過去に散った数多くの犠牲の上に、現在の平和な「天下泰平」の日本があることを忘れずに、単に見るだけでなく、当然、敬意をもって手を合わせ、真摯に見学したいものです。

西首塚(供養塔)は、国道21号沿いにあります。
一応は、国道沿いに、2~3台が止められる駐車場があります。
しかし、狭いですし、分かりにくいので、早めにウインカーを出してください。
直前で急にブレーキ踏むのはとても危険です。
国道はスピードを出して走っている車やトラックも多く、この西首塚付近は緩やかなカーブで見通しが悪いです。
駐車場から出る際にも、充分に安全確認をお願いしたいと存じます。

下記の地図ポイント地点が、その駐車場となります。

なお、近くの関ヶ原中学校の敷地内に「藤堂高虎京極高知陣地」があります。

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