関ヶ原の戦いにて、徳川家康が最後に本陣を置いた場所は、現在、陣場野公園となっており、その公園の「北西」に「徳川家康最後陣跡」があります。
関ヶ原の戦いが始まる前、大垣の岡山本陣から転進してきた徳川家康は「桃配山」に本陣を置きました。
1600年9月15日、霧が晴れてきた朝8時頃に合戦が開始されましたが、しばらく、徳川家康は桃配山の「徳川家康最初陣」から
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しかし、西軍との戦闘は熾烈を極め、一進一退の状態から、若干ですが、東軍が不利な状況になったと感じたのかもしれません。
また、関ヶ原の頃にもなると合戦の主力兵器は「鉄砲」です。
関ヶ原一帯は、大変多くの「鉄砲」の射撃による煙「硝煙」により、霞んだ状態となり、戦況が良く見えなくなったとされています。
そのため、朝11時頃になって、徳川家康は本陣を桃配山から、石田三成本陣がある笹尾山から、直線距離にて約600mのココに移しました。
寝返ると約束しながら、ずっと松尾山で様子見していた小早川秀秋に対しても、ココから鉄砲による威嚇射撃を命じた訳です。
そして、見事に勝利した徳川家康(59歳)は、ココで次々に運ばれてくる敵将の首級を見聞する「首実検」を行いました。
関ヶ原ウォーランドでも再現されています。
その後、首実検が終わり、荒れた関ヶ原の戦後処理を竹中重門に託すと、もう日が暮れかけました。
しかし、大阪城付近で西軍の人質になっている、各将の妻子を救出するのが優先だとして、少しでも先を急ぐとし、この最後陣の場所から、大谷吉継が陣を構えていた藤古川台まで進みます。
関ヶ原の戦いが終わったあと、大谷吉継の陣跡にて徳川家康は夜営しました。
そして、徳川勢は佐和山城を攻撃すると言う流れになっています。
のち、ココ徳川家康最後の陣地跡となった場所は、徳川幕府の命にて、関ヶ原一帯を所領としていた竹中家が整備を命じられます。
徳川家康は戦場で移動用の椅子となる「床几」(しょうぎ)に腰かけて差配し、勝利した言う事で、その跡地の周囲には土塁が囲まれ、中央には土壇が築かれました。
その「床几場」が現存しており、国史跡に指定されています。
駐車場は、関ケ原町歴史民俗資料館の駐車場が隣接していますので、便利です。
資料館からだと、下記の写真のところを入って行きます。
また、田中吉政陣跡も近くにありますので、セットで見学しておきましょう。
徳川家康最後陣跡(床几場)の場所は、下記の地図にてご確認願います。
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