その他関ヶ原の戦い関連の各種情報など
筒井定次と伊賀上野城の戦い~伊賀・上野城の訪問記
筒井定次(つつい-さだつぐ)は、1562年5月5日、和泉の慈明寺城主・慈明寺順国(筒井順国)の次男として生まれました。母は筒井城主・筒井順昭の娘です。筒井一族で本家となる筒井順慶(筒井順昭の子)が跡継ぎに恵まれなかったため、筒井定次は筒井順...
その他関ヶ原の戦い関連の各種情報など
筒井定次(つつい-さだつぐ)は、1562年5月5日、和泉の慈明寺城主・慈明寺順国(筒井順国)の次男として生まれました。母は筒井城主・筒井順昭の娘です。筒井一族で本家となる筒井順慶(筒井順昭の子)が跡継ぎに恵まれなかったため、筒井定次は筒井順...
甲賀忍者は主君に忠義を尽く方式を重視しましたが、伊賀忍者はお金で雇われる方式を重視したと言い、もちろん関ヶ原の戦いなどでも知られざる活躍をしました。そんな伊賀の忍者について詳しく知る事ができる「伊賀流忍者博物館」が伊賀上野城には公園内にあり...
水口城の戦いとは戦国時代の1600年9月15日、関ヶ原の戦いで敗れてしまった石田三成。石田三成に味方した西軍諸将は、関ヶ原で討死・自刃した者もいれば、本国への逃走を図った者もいました。そんな中のひとり、長束正家は関ヶ原から直線距離で約65k...
関ヶ原の戦いとなる約3ヶ月前の1600年7月18日、伏見城に40000とも言われる大軍が押し寄せ「伏見城の戦い」(ふしみじょうのたたかい)となった。石田三成が徳川家康を討つために蜂起し、その趣旨に賛同した西軍はまず畿内の徳川勢力の駆逐を考え...
大澤正秀(おおさわ-まさひで)は、大沢次郎左衛門(おおさわ-じろうざえもん)、大沢治郎左衛門、大沢正秀、大沢基康、大沢正重、大沢正継、大沢正次(大沢治郎左衛門正次)、大沢為康、大沢六郎左衛門など色々な名前があります。いずれかは、父や子の名前...
あなたさまの好きな戦国武将を投票する「好きな戦国武将ランキング」です。好きな戦国武将を、お一人さま最大で10人まで投票可能です。20名まで選択できるよう拡大致しました。下記のリストより選択して、ページ下部にある「投票する」を押してください。...
▼徳川家康(江戸幕府の初代将軍)は、1542年12月26日が誕生日とされている。歴史マニアだと突っ込み入れる人いらっしゃるので、グレゴリオ暦換算すると、新暦1543年1月31日(水)。三河(いまの愛知県東部)の岡崎城で小大名・松平広忠の子と...
岩手・禅幢寺は竹中氏と竹中家臣の菩提寺で、竹中氏陣屋から北へ進み、JR東海道本線のカードを抜けた先にあります。禅幢寺は「ぜんとうじ」と読みますが、創建は1494年で、薩摩・金幢寺の僧正碩和尚が開祖との事です。竹中半兵衛は結核(肺炎?)を患い...
今回、関ヶ原の戦いにおける史跡を2日間で周っている際、長宗我部元親の陣跡へと向かっている養老町橋爪の途中で、なにやら「石碑」があるな?と、目にとまった次第です。石碑には「丸毛兵庫頭・稲葉備中守等奮戦の地」と掘られています。当然、予定外である...
ナポレオン戦争のワーテルローの戦い(ベルギー)、アメリカ南北戦争のゲティズバーグの戦いと共に、2014年からは「世界三大古戦場」として名乗りも上げ、歴史ある観光地として更に本格的な活動を開始している関ヶ原町ですが、JR関ヶ原駅前にあった観光...
関ヶ原と聞くと、1600年にあった天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」が行われた場所として教科書にも出て来ますが、この関ヶ原(不破の関)は、古来より東西に中山道が貫き、西北に北国街道、南にし伊勢街道が通じる「交通の要所」でした。現在でも、東海道...