関ケ原の戦犯は毛利輝元か?
天下分け目の「関ケ原の戦い」が行われていた9月15日。Twitterでは石田三成が、#関ケ原2020を立ち上げ、今年も負け戦を実況していました。石田三成は逃走から6日目の9月21日に捕縛されていますが、2020年はMKタクシーを利用しレバノ...
天下分け目の「関ケ原の戦い」が行われていた9月15日。Twitterでは石田三成が、#関ケ原2020を立ち上げ、今年も負け戦を実況していました。石田三成は逃走から6日目の9月21日に捕縛されていますが、2020年はMKタクシーを利用しレバノ...
関ヶ原の戦いの際、大谷吉継陣跡よりも、敵の東軍を先だって迎え撃つような形で布陣したのが、平塚為広(ひらつか-ためひろ)です。平塚家は、相模・岡崎城を本拠地にもした、もともと相模の名門・三浦氏の氏族で、三浦為高が平塚郷(神奈川県平塚市)を領地...
石田三成公。今でこそ、義に生き、義を貫いた武将として知られておりますが、一昔前までは秀吉公の腰巾着、狡猾な悪党として語られることも少なくはなかった武将です。石田三成公といえば、関ヶ原の戦い。戦国時代の大戦で最後を飾った石田三成公ですが、その...
田辺城の戦い(たなべじょうのたたかい)は、関ケ原の戦いの前哨戦のひとつで、慶長5年7月19日(1600年8月27日) から9月6日(10月12日)にかけて約2ヶ月間、丹後・田辺城での籠城戦となりました。守るのは丹後の大名・細川忠興に家督を譲...
高橋元種(たかはし-もとたね)は、1571年に筑前の秋月城主・秋月種実の次男として生まれました。母は田原親宏の娘です。天正6年(1578年)、耳川の戦いのあと、8歳の頃に同盟者である小倉城主・高橋鑑種の養子となります。そして、攻め落とした香...
浅井畷の戦い(あさいなわてのたたかい)は、戦国時代の慶長5年(1600年)8月9日にあった北陸における「関ヶ原の戦い」です。本物の関ケ原合戦は、1600年9月15日ですので、浅井畷の戦いは約1ヶ月早い「前哨戦」と言う事になりますが、なぜ、石...
山口宗永山口宗永(やまぐち-むねなが)は、山口光広(山口甚介)の子として1545年に生まれました。初めは山口宗長とも名乗り、山口甚兵衛、山口玄蕃頭宗永とも称しますが、豊臣秀吉に仕えます。文禄2年(1593年)、朝鮮攻めの失敗から丹生島城(臼...
青木一矩青木一矩(あおき-かずのり)は、美濃国大野郡揖斐庄の住人・青木重矩(青木勘兵衛)の子として生まれたとされています。生年は不明です。母は、鍛冶職人とされる関兼貞(関兼員)の三女・大恩院となります。この大恩院は、豊臣秀吉の母である「なか...
辰姫辰姫(たつひめ)は、石田三成の3娘として1592年に生まれました。生母は、正室・うた(皎月院、こうげついん)と考えられています。慶長3年(1598年)頃だと推測されますが、豊臣秀吉が亡くなったあとに、豊臣秀吉の正室・北政所(高台院)の養...
死を覚悟して鳥取城に入った吉川経家が兵糧攻めの末に切腹した「鳥取の飢え殺し」でも有名な鳥取城ですが、その後の戦国時代の鳥取城と、関ケ原の戦いの際の鳥取城を調べてみました。山中鹿之助と尼子勝久を支援して鳥取城主となった山名豊国でしたが、羽柴秀...
戦国時代で名高い名将として、日本国内のみならず朝鮮出兵で明軍を撃破して鬼石曼子(グイシーマンズ、鬼島津)として畏れられた島津義弘がいますが、一人の寵臣に幾度も危機を救われています。その寵臣こそ、ぼっけもん(鹿児島弁で勇者、豪傑の意味)と呼ば...
熊谷直盛(くまがい-なおもり)は、若狭国守護である武田氏の家臣と考えられます。同族とも言われている武将に熊谷直之(くまがい-なおゆき)がいますが、両名とも生年不明で、2人の関係も良くわかりません。ただし、熊谷直之は武田家の老臣とあることから...