渡辺勘兵衛とは~石田三成の家臣として関ヶ原で奮戦し散った勇将
渡辺勘兵衛(わたなべ-かんべえ)は、渡辺新之丞(しんのじょう)とも文献に記載されることがあり、同じく石田家の重臣になった島左近(島清興)に似た逸話がある。同じく渡辺勘兵衛と称し増田長盛や藤堂高虎が召し抱えた渡辺了(わたなべ-さとる)とは別人...
渡辺勘兵衛(わたなべ-かんべえ)は、渡辺新之丞(しんのじょう)とも文献に記載されることがあり、同じく石田家の重臣になった島左近(島清興)に似た逸話がある。同じく渡辺勘兵衛と称し増田長盛や藤堂高虎が召し抱えた渡辺了(わたなべ-さとる)とは別人...
京極高次(きょうごく-たかつぐ)は北近江の守護・京極高吉の嫡男として1563年に生まれました。幼名は小法師です。母は浅井久政の娘・京極マリアです。生まれた城は、なんと「小谷城」の京極丸で、当時の浅井家当主は浅井長政です。姉か妹には京極竜子(...
関ヶ原の戦いとなる約3ヶ月前の1600年7月18日、伏見城に40000とも言われる大軍が押し寄せ「伏見城の戦い」(ふしみじょうのたたかい)となった。石田三成が徳川家康を討つために蜂起し、その趣旨に賛同した西軍はまず畿内の徳川勢力の駆逐を考え...
竹中氏陣屋とは竹中氏陣屋(たけなかしじんや)は、垂井町岩手にある竹中家の先祖伝来の地です。戦国時代には「岩手城」と呼ばれ、背後にある菩提山城が詰めの城と言う事になりましたが、竹中半兵衛までは菩提山城を居城としていました。竹中氏陣屋を築城した...
関ヶ原の戦いにて、西軍の大谷吉継と共に奮戦した平塚為広の居城は、関ヶ原町から隣にある垂井町の中心部にあります。この垂井の専精寺付近も湧水が豊かな地であり、旧中山道も通っており、その街並みはいかにも古く素晴らしいです。水が沸くところには人が集...
しかし、スゴイところに陣地を構えたものです。毛利秀元は・・。と言う事で、南宮山(なんぐうさん)にある毛利秀元の陣跡を訪問して参りました。関ヶ原の戦いの際に、毛利秀元が陣を置いた場所は、岐阜県垂井町にある南宮大社から山登りとなります。まずは、...
関ヶ原の戦いにおいて、毛利家は石田三成の要請に応じ、大阪城に参じます。そして、毛利輝元が西軍の総大将となりました。当然、毛利家の親族である吉川家、小早川家は毛利本家に従い兵を大阪に出します。このように毛利家を支えていた吉川広家は、吉川元春の...
長束正家陣跡は、南宮山の麓となる垂井町栗原集落にあります。長束正家は水口城主12万石で、豊臣政権では石田三成らと共に、五奉行の1人として主に財政を担当していました。1600年、石田三成が五大老の毛利輝元を擁立し、関ヶ原の戦いとなると長束正家...
岐阜県養老町であった金屋川原の戦いは、1600年9月15日、天下分け目の「関ヶ原の戦い」となった際に、戦わずして戦線離脱を図った長宗我部盛親らの部隊が戦闘状態となった合戦です。西軍として南宮山にて布陣するも戦わずにいた長曽我部盛親らは、石田...
長宗我部盛親の陣跡(長宗我部盛親陣址)は、垂井町栗原にあります。約6000の兵にて栗原山麓に陣を置きました。長宗我部盛親は、長宗我部元親の4男となります。長宗我部元親は1599年5月に死去しており、その後を長宗我部盛親が継いでいました。長宗...
関ケ原ウォーランド関ケ原ウォーランド(せきがはらウォーランド)は、約3万平方メートルの敷地に、関ヶ原の戦いにて活躍した戦国武将が所狭しと展示されており、さながら「関ヶ原合戦」が再現されている、野外博物館です。お城の「門」の形をした入口を入る...
宇土城主で20万石の小西行長は、そもそも徳川家康に接近しており、会津征伐の際には大阪に残留するように命じられていました。しかし、石田三成が挙兵すると聞くと、それに応じて西軍に加わったのです。1600年9月15日、関ヶ原の戦いでは6000を率...