平塚為広 平塚為広碑 名門三浦家の誇りを持って大谷吉継と運命を共に【関ヶ原の史跡】
関ヶ原の戦いの際、大谷吉継陣跡よりも、敵の東軍を先だって迎え撃つような形で布陣したのが、平塚為広(ひらつか-ためひろ)です。平塚家は、相模・岡崎城を本拠地にもした、もともと相模の名門・三浦氏の氏族で、三浦為高が平塚郷(神奈川県平塚市)を領地...
関ヶ原の戦いの際、大谷吉継陣跡よりも、敵の東軍を先だって迎え撃つような形で布陣したのが、平塚為広(ひらつか-ためひろ)です。平塚家は、相模・岡崎城を本拠地にもした、もともと相模の名門・三浦氏の氏族で、三浦為高が平塚郷(神奈川県平塚市)を領地...
1582年、織田信長より毛利攻めを命じられた羽柴秀吉は宇喜多直家を含めた3万にて、毛利勢として清水宗治らが籠城する備中・高松城に押し寄せました。そして、毛利の援軍も来るとにらみ合いとなりましたが、黒田官兵衛の秘策を受けて、蛙ヶ鼻から3キロの...
木崎原の戦い(きざきばるのたたかい)は、1572年に日向の真幸院木崎原(宮崎県えびの市)で行われた伊東義祐と島津義弘(38歳)との合戦です。伊東家側は覚頭合戦と言いますが、島津家側は加久藤城の戦いとする場合もあります。薩摩の島津家15代で薩...
手取川の戦い(てどりがわのたたかい)は、戦国時代の1577年9月23日に、上杉謙信と柴田勝家が戦った北陸での合戦です。七尾城主の畠山義隆(はたけやま-よしたか)が死去し、まだ5際~6歳である畠山春王丸(はたけやま-はるおうまる)が家督を継ぐ...
青木一矩青木一矩(あおき-かずのり)は、美濃国大野郡揖斐庄の住人・青木重矩(青木勘兵衛)の子として生まれたとされています。生年は不明です。母は、鍛冶職人とされる関兼貞(関兼員)の三女・大恩院となります。この大恩院は、豊臣秀吉の母である「なか...
筒井定次(つつい-さだつぐ)は、1562年5月5日、和泉の慈明寺城主・慈明寺順国(筒井順国)の次男として生まれました。母は筒井城主・筒井順昭の娘です。筒井一族で本家となる筒井順慶(筒井順昭の子)が跡継ぎに恵まれなかったため、筒井定次は筒井順...
関ヶ原の戦いとなる約3ヶ月前の1600年7月18日、伏見城に40000とも言われる大軍が押し寄せ「伏見城の戦い」(ふしみじょうのたたかい)となった。石田三成が徳川家康を討つために蜂起し、その趣旨に賛同した西軍はまず畿内の徳川勢力の駆逐を考え...
岩手・禅幢寺は竹中氏と竹中家臣の菩提寺で、竹中氏陣屋から北へ進み、JR東海道本線のカードを抜けた先にあります。禅幢寺は「ぜんとうじ」と読みますが、創建は1494年で、薩摩・金幢寺の僧正碩和尚が開祖との事です。竹中半兵衛は結核(肺炎?)を患い...
垂井の明泉寺は、天才軍師・竹中半兵衛を生みだした、岩手・竹中家の菩提寺です。明泉寺はのち竹中家を称することになる初代・岩手重氏が建立したと伝わる寺です。代々、岩手家(竹中家)の一族が、現在でも住職を世襲しておられます。実は、この明泉寺の本堂...
竹中氏陣屋(たけなかしじんや)は、垂井町岩手にある竹中家の先祖伝来の地です。戦国時代には「岩手城」と呼ばれ、背後にある菩提山城が詰めの城と言う事になりましたが、竹中半兵衛までは菩提山城を居城としていました。竹中氏陣屋を築城したのは1588年...
1578年、荒木村重が織田信長に謀反を起こした「有岡城の戦い」の際に、黒田官兵衛は単身で有岡城に乗り込み、荒木村重を説得しようとします。しかし、黒田官兵衛は捕えられて、土牢に閉じ込められてしまい、戻って来ない黒田官兵衛も寝返ったと織田信長は...
関ヶ原の戦いにて、西軍の大谷吉継と共に奮戦した平塚為広の居城は、関ヶ原町から隣にある垂井町の中心部にあります。この垂井の専精寺付近も湧水が豊かな地であり、旧中山道も通っており、その街並みはいかにも古く素晴らしいです。水が沸くところには人が集...